「誠なるかなや」 親鸞聖人の大歓喜
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
(教行信証総序)
“誠だった、本当だった、弥陀の本願ウソではなかった!”
「弥陀の本願」を「摂取不捨の真言」といい、その本願にツユチリほどの疑心も無くなった親鸞聖人の、驚きと慶喜のお言葉である。
「摂取」とは、逃げ回る者をとらえて摂め取ることをいう。ご法筵があっても、いろいろな断り文句を並べて、なかなか参詣しようとしない。せっかく聞法会場に座っても、家や会社、帰りの交通などに気が取られて、心は仏法から逃げ回っている。そんな者を〝救わずばおかぬ〟と追いかけ、追い詰め、ガチッと摂め取ってくださる無上の御仏が阿弥陀仏なのである。
ひとたび弥陀に救われたならば、永遠に捨てられないから「摂取不捨」といわれる。私たちは、金や財産、マイホーム、恋人を求め、日夜、悪戦苦闘している。だがそれらは、大地震や津波が来たら数秒で消失する、儚い幸福でしかない。たとえ災害に遭わずとも、死から逃れることは誰もできない。
「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」
(御文章)
“今まで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、いよいよ死んでいく時は、何一つ頼りになるものはない。全てから見放されて、一人でこの世を去らねばならない。丸裸で一体、どこへ行くのだろうか”
蓮如上人の訓戒どおり、死の巌頭に立てば、それまで力にしてきた一切は、私を捨てていく。天下を睥睨(へいげい)し贅沢を極めた太閤・秀吉も、臨終には何一つ、頼れるものはなかった。最も気掛かりなわが子も、腹黒い家康に託すしかなく、「難波のことも夢のまた夢」と、寂しくこの世を去っているではないか。遅かれ早かれ、全てに見捨てられるのが、万人の実態である。こんな悲劇の滝つぼに向かう全人類に、真の安心があるだろうか。
たとえ死が来ても壊れない、永遠に捨てられない「摂取不捨」の幸福こそ、すべての人が求めてやまない「人生の目的」なのである。
どんな人も必ず、この摂取不捨の幸福に救い摂ると誓われた、弥陀の本願を、親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と仰っている。
そんな凄い弥陀の誓願を聞くと、「本当に絶対の幸福など、あるのだろうか」「どんな人もと仰るが、私も救われるのだろうか」という疑いが、必ず起きてくる。その根深い疑心を打ち砕かれた親鸞聖人の歓喜が、「誠なるかなや、摂取不捨の真言」なのである。「弥陀の本願まことだった、本当だった。この親鸞が生き証人だ。早く絶対の幸福になってくれよ」と、叫び続けてくださっているのである。
では、どうすれば親鸞聖人と同じ、摂取不捨の幸福に生かされるのか。「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人仰せのとおり、弥陀の救いは聞く一つである。
「本当に、聞くだけでよいのか」と計らう者に親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」と諭されている。「聞思」とは、「聴聞」のこと。聴聞一つで救われるのだから、心配するな、モタモタするな、他力になるまで他力を聞けよと、決死の聞法を勧めておられるのである。弥陀の真言どおり「本願まことだった」と疑い晴れるまで、真剣に聞かせていただこう。