「ただ念仏して」の誤解を正す
「親鸞聖人のお言葉を提示して、一石を投じたい」と、「はじめに」に記された『歎異抄をひらく』は、各地で様々な波紋を広げている。
中でも大きな衝撃は、「念仏さえ称えていたら助かる、というのは親鸞聖人の教えではない」ということだ。これまで聞いてきた話と違う、と信仰が動揺する道俗(僧侶や門徒)が続出し、この影響は、今後ますます拡大しそうである。
「念仏を称えたら誰でも極楽へ往ける、と教えたのが親鸞聖人」という、広く世に蔓延している迷妄がある。
かつては二万カ寺あったという浄土真宗の寺でそう教えられ、門徒もそれを信じていた。真宗の道俗ですらそうだから、まして一般大衆は皆、それに間違いないと思い込んでいたのである。
その有力な根拠となっているのが、実は『歎異抄』であった。全章にわたって「念仏」の二文字が強調される『歎異抄』だが、とりわけ有名なのは第二章、すなわち、
「親鸞におきては、『ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし』と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり」
の一文である。
この「ただ念仏して」を、「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と誰でも信じ込んでいた。だがそれは、親鸞聖人の教えに反する大間違いであることが『歎異抄をひらく』で明白にされたのである。(※「歎異抄をひらく」-第2部6章・・「ただほど高いものはない」といわれる。では『歎異抄』の〝ただ〟とは?)
『歎異抄』の誤解を恐れて封印された蓮如上人は、『御文章』の至るところに、「いくら念仏称えていても助からぬ」と記されている。
名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり」(1帖15通)
「ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず」(3帖3通)
「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」(3帖5通)
このような証文は、多数に上る。「ただ念仏さえ称えていれば助かる」というのは、断じて親鸞聖人の教えではないのである。
唯信独達の法門
親鸞聖人のみ教えは一貫して、信心一つの救いだから、「信心為本」「唯信独達の法門」と言われている。
聖人ご自身がこのことを、
「涅槃の真因は唯信心を以てす」(浄土往生の真の因は、ただ信心一つである)
と『教行信証信巻』に記され、「真実信心を獲得した人だけが極楽浄土へ往ける、というのが、浄土真宗の教えだ」と、『唯信鈔文意』には、こうも断言されている。
「『真実信心をうれば実報土に生る』と教えたまえるを浄土真宗とすと知るべし」
『歎異抄』にも、全章の収まる第一章に「ただ信心を要とす」とズバリこのことが明示されているのだが、皆、ここを読み落としてしまうのだ。
親鸞聖人が、唯信独達の法門を樹立された本源は、実に、阿弥陀仏の本願を分かりやすく解説された釈尊の「本願成就文」にさかのぼる。
そこには、「信心歓喜乃至一念」の信心一つが説かれて、念仏は説かれていないから、弥陀の救いは、一念の信心一つでなされるのだということが、ハッキリする。
だからこそ親鸞聖人も蓮如上人も、「早く信心決定せよ」「一日も片時も信心決定を急げ」と、生涯叫び続けられたのである。
「信をとれ」とも繰り返し仰せである。
浄土真宗の信心は、自分の心で信ずるのではない。阿弥陀仏から賜る他力の信心だから、「信をとれ」と言われるのである。
阿弥陀仏のみ心を早く受け取れよ、ということだ。そういう体験が、この世でできるのである、しかもそれは、あっという間もない一念(時間のきわまり)の、きわめてハッキリした体験なのだ。
この「本願成就文」の教えこそが、本当の親鸞聖人のみ教えであり、「一実円満の真教・真宗」(※たった一つしかない真実であり、完全無欠の、まことの教え。真実の宗教ということ)なのである。
これまで間違った教えを話し、聞かされてきた人たちの混乱は、これからますます大きくなるだろう。
本当の親鸞聖人の教えにふれ、早く弥陀の救いにあっていただきたい。