人生の目的と「無碍の一道」
「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」
(歎異抄7章)
“弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ絶対の幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなるからである”
親鸞聖人のみ教えは、平生業成といわれる。平生だから死後ではない、生きている時のこと。業成とは、人生の大事業(人生の目的)が完成するということである。
人生の目的とは何か。
昨年3・11の大震災で、汗水流して築き上げた財産や家、大切な家族も失って、悲嘆の底に沈んでいる。「復興だ。立ち上がろう」と言われても、地震や津波で破壊され、流されてしまうものを「もう一度求めよう」という気力が、どうして起きてくるだろう。
今、日本人の多くは、人生観の訂正を迫られ、「なぜ生きる」の真の答えを模索しているようである。
そんな私たちに親鸞聖人は、「人生には目的がある。完成できる。だから完成しなさいよ」と力強くエールを送ってくださっている。それが冒頭の『歎異抄』の宣言なのである。
「念仏者は無碍の一道なり」
弥陀に救われた念仏者は、一切が障りにならないとは、どういうことか。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と夏目漱石も嘆いているが、私たちは日々、職場や家庭、人間関係に縛られ苦しんでいる。「我に自由を与えよ」と叫んでも、どこにも自由はないようだ。
しかし、弥陀に救われた人は、どんな障りも浄土往生の妨げとはならないのだ。生きてよし、死んでよし。いつでもどこでも「浄土往生間違いなし」の大満足に生かされるから、妨げるものなき自由の天地に心は遊んでいる。
さらに親鸞聖人は次に、弥陀より信心を賜った行者には、天地の神々も敬って頭を下げるのだと、驚くべきことを仰っている。誰もが、神にはこちらから頭を下げるものだと思い込んでいるが、全く逆だ。神々に敬伏される身になれるぞ、と言われているのである。
また、多くの人は、不幸や災いをもたらすものを悪魔と呼んで忌み嫌う。科学技術の粋を凝らした高層建築やロケット発射の現場でさえも、神主を招いて悪魔祓いをしている有り様だが、何と情けないことではないか。
だが無碍の一道に出た念仏者には、悪魔も外道も恐れ入って、その前進を阻むことはできないのである。
そんな不思議な無碍の一道がある。これこそが真の人生の目的であり、弥陀に救われれば、誰でもなれる。だから早くなりなさいよと、親鸞聖人は一生涯、人生の目的の厳存と、その達成をすべての人に勧められたのである。
まさに世界の光であろう。