蓮如上人のご遺言「まことに宿善まかせ」
「これによりて五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり」
(御文章2帖目11通)
親鸞聖人のみ教えを、一器の水を一器に移すがごとく、伝えられた蓮如上人のご金言である。
浄土真宗といえば、「ただじゃ、そのままじゃ、絶対他力じゃ、無条件のお助けじゃ。だから真剣に求める必要はない。求めるのは自力だから間違いじゃ」と無責任な説教ばかり聞かされて、それなら寝るよりほかにございませんと、何にもしないで、死んだら極楽、死んだら仏と思っている者が多い。
いや、浄土真宗ばかりではない。世間中が、「死んだら誰でも仏」と思い込んでいる。テレビの時代劇などでは、死人を指して仏といい、殺人犯が捕まれば「これで仏も浮かばれましょう」などと言う。それを聞いて、誰も違和感も感じなければ、抗議もしないのは、皆、仏教を誤解しているからであろう。
仏間違いも甚だしい。
誰でも彼でも、死ねばみな極楽に往って仏になれるのではない。では、死の滝つぼに向かって生きている我々の後生(来世)はどうか。万人にとって、これ以上の一大事はないだろう。
冒頭の『御文章』で蓮如上人は、「五つのものがそろわなければ、極楽往生はできないし、仏にはなれない」と厳しく仰っている。
無論これは、蓮如上人の独創ではない。親鸞聖人のみ教えであり、釈迦・七高僧方のご教導であり、さかのぼれば弥陀の直説なのである。
では「五重の義」とは何か。
その第一が「宿善」である。
阿弥陀仏の救済にあずかって、浄土往生するには絶対不可欠なのが「宿善」であると教えられている。
蓮如上人の『御文章』には、
「いずれの経釈によるとも、既に宿善に限れりと見えたり」
(3帖目12通)
“どのお聖教を見ても弥陀の救いは、宿善一つによって決まると説かれている”
「弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし」
(4帖目1通)
“弥陀に救い摂られるか、どうかは、宿善一つで決まるのである”
「無宿善の機に至りては力及ばず」
(4帖目8通)
“宿善の無い人は、救われないのである”
御臨末には、
「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)
“不憫だなあ、命のあるうちに、みなみな信心決定してもらいたい。終日思い続けているのは、そのこと一つである。「宿善まかせ」とは、よくよく知りつつも、そう念ぜずにはおれないのだ”
弥陀の救い(信心決定)を「宿善まかせ」とまで仰せになっている。
病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせ、飛行機に乗ればパイロットまかせという。最も大事なものに「まかせ」といわれるのだ。「信心決定は、宿善の有無によって決する」と重々分かってはいるが、それでもどうか早く信心決定してもらいたいと願わずにおれないのだ。信心を獲ることは人間の言動のコツや技術でどうにかなることではないことは分かっているが……、というやるせない心を、吐露されているのである。
高森顕徹先生は60有余年、一貫してこの蓮如上人のご遺言を讃題に、ご布教なされている。
では、それほどに重要な宿善とは何か。全人類の最大関心事でなければならぬであろう。
ところが驚くべきことに、この「宿善」について詳しく教えられている本が、ほとんど見当たらないのである。
蓮如上人が、これほど『御文章』で繰り返し訴えていられるにもかかわらず、である。徳川300年、多くの名立たる真宗学者が現れ、今日の真宗学が構築されているのだが、なぜか「宿善」の解説が曖昧模糊としている。いわば、真宗学の死角になっている。微妙なところがあるからだろう。
「宿善まかせ」とまで蓮如上人が仰る「宿善」を、親鸞学徒は当然、熟知していなければならない。それを聞くための聞法道場が、二千畳なのである。
※動画:蓮如上人と堅田の法住