救われない原因は何か
救われない原因は何か。
親鸞聖人は、『正信偈』にズバリこう断言されている。
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止となす」
“過去・現在・未来の三世にわたって、我々が迷い苦しみから離れられないのは、弥陀の本願を疑う心、疑情一つのためである”
また『和讃』には、
「真の知識にあうことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき」
(高僧和讃)
“迷い苦しみの元凶は、弥陀の本願を疑う疑情一つであると教える、真の知識(ここでいう「知識」とは「仏教の先生」)に遇うことは、難きが中に難きことである”
「仏智疑う罪深し」
“弥陀の本願を疑うほど、恐ろしい罪はないのである”
と明言されている。
私たちが、果てしない過去から迷い苦しんできたのも、現在、苦しんでいるのも、未来永劫、苦しまねばならぬのも、その真因は、弥陀の本願を疑う心・疑情一つであると、親鸞聖人は教示されているのだ。
この疑情を、本願疑惑心とも、自力の心とも言う。
本師本仏の阿弥陀仏が、「すべての人を、必ず未来永遠の幸福に救う」と誓われているのに、なぜ救われないのか。理由は唯一つ、その弥陀の本願を疑っているからなのである。
どうしてそんなことが断定できるのだろうか。
阿弥陀仏の本願の真意を解き明かされている、釈迦の『本願成就文』(弥陀の本願を解説されたお言葉)の教えであるからだ。
親鸞聖人の曽孫の覚如上人は、こう証言されている。
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」 (改邪鈔)
“それが弥陀の誓いの真実か、どうかの判定は、釈迦の「本願成就文」をもって基準(ものさし)とすると親鸞聖人は教えられた。だから「本願成就文」の教えのほか、私は聖人から聞いたことがない”
親鸞聖人は、「本願成就文」の教え以外に、説かれたことがなかったのである。
その「本願成就文」には、どうすれば弥陀の本願に救われるのか、について、「聞其名号(その名号を聞きて)」と、聞く一つで助かることが明示されている。
では、何をどう聞くのか。
『教行信証』信巻に、親鸞聖人は、
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」
“聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末を聞いて、ツユチリほどの疑心もなくなったことをいう”
と解明されている。
この「本願成就文」の教えから親鸞聖人は、本願を疑っている疑情一つで助からないのだ、と断定されているのだ。
「仏願の生起・本末」とは、阿弥陀仏の本願は、どんな人のために建てられたのか、どのようにして建てられたのか、その結果はどうなったのか、これら一切のことである。この仏願の生起本末を聞けば、必ず疑い(本願疑惑心)が起きる。だから我々が聞法する目的は、三世を迷わす元凶であるこの疑情(本願疑惑心)を不可思議の弥陀の願力で破っていただくためであり、これ以外にはないのだ。
親鸞聖人のみ教えが、自他力廃立(自力を捨てて他力に入れ)、信疑決判(救われたか否かは、本願に疑いが晴れたか否かで決する)と言われるゆえんである。