人生の苦海に大船あり
世界の光と仰がれる親鸞聖人は、90年のご生涯、私たちに何を教えられたのか。
それは主著『教行信証』の冒頭に、「難思の弘誓は難度海を度する大船」と記されている。難度海とは、苦しみの波の絶えない人生のことである。
苦悩の人生を明るく楽しく渡す大船の厳存一つを、全人類に教示なされたお方が、親鸞聖人である。
読売新聞の「人生案内」は100年続いている人気コラムだが、毎日、老若男女を問わず、様々な悩み苦しみが訴えられている。親子や夫婦、友人関係、職場の悩み、借金、ギャンブル、病気など、苦は色変わり、様変わり、大波小波となって襲いかかってくるのが知らされる。
何かにすがっては裏切られ、また別のものにすがりついては捨てられ、最後は、すがりつく力さえ失って沈んでいく。科学が利便を、医学が長寿をもたらしたものの、人生苦の本質は、何も変わっていない。
ある人が、ぽつりと言った。
「頭のいい人が、早く死んでいく訳が分かった」
年を取っても何一ついいことがないと、利口な人がさっさと人生を退場していく。苦しみばかりの人生ならば、確かに賢明であろう。
だが親鸞聖人は「難度海を明るく楽しく渡す大船あり」と宣言されている。
苦しみ悩むために、生まれてきたのではない。阿弥陀仏(大宇宙の無数の仏方の師の仏さま)の創られた「南無阿弥陀仏」の大船に乗せていただけば、人生の苦海が光明の広海と転じ、必ず極楽浄土へ渡してくだされる、だから早く大船に乗りなさい、と聖人は仰せなのだ。
大船に乗ったらどうなるか。
人生の風光(景色)がガラリと変わる。
苦悩の根本が抜き取られ、絶対の幸福に生かされるからである。
だが、間違えてはならない。欲や怒り、妬みそねみの煩悩は、
「南無阿弥陀仏」の大船に乗せていただいても全く変わらない、ということだ。
仏法を聞いたら、欲が減ったとか、腹が立たなくなった、と思っているのは自分の本当の姿を知らないだけである。煩悩は、「臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず」 と親鸞聖人が仰るように、死ぬまで減りもしなければ、なくなりもしない。人間は「煩悩具足」、煩悩の塊であるからだ。
その煩悩具足のものを目当てに阿弥陀仏は、「そのまま大船に乗せて、極楽浄土へ連れてゆく」と誓っていられる。
例えていえば、我々は10トンの石である。そのままならば必ず水に沈む。しかし大船に乗せれば、重さは10トンのままで水に浮かび、向こう岸に運ばれるようなものだ。
乗船するのは、いつとはなしでもなければ、だんだん乗り込むのでもない。平生の一念である。一念とは、何兆分の一秒よりも短い、時間の極まりを顕す。この一念に乗船し、絶対の幸福に救われるのである。
蓮如上人はこれを「聖人一流の章」に、「一念発起・入正定之聚」と明記されている。
では、どうすれば乗船できるのだろうか。
仏法は聴聞に極まる。聞く一つである。「聞思して遅慮することなかれ」と親鸞聖人は教導されている。
弥陀の不可思議の願力によって、必ず聞かせていただける。そして「南無阿弥陀仏」の大船に乗せられ、弥陀の浄土へ渡していただけるのである。
親鸞聖人はご臨末に、「あなたは決して一人じゃない。親鸞がいつもそばにいるからね」と仰っている。今も私たち一人一人に寄り添い、励まし、導いてくださっているのだ。
だから、親鸞聖人の教えを聞き、信ずる人(親鸞学徒)に、孤独感は無縁だ。常に聖人さまとともに、無量光明土に向かって幸せな人生を送ることができるのである。