苦悩の真因、知るは雨夜の星
「真の知識にあうことは
難きが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき」
(親鸞聖人)
「苦しみの根元は〝疑情〟一つと説く、本当の仏教を教える人には、めったに会うことはできないものである」
政治や経済、科学、医学、法律、芸術、全て人の営みは幸福のためにある。だが物質的に豊かになっても、苦悩は少しも減少してはいない。なぜなら、苦悩の真因を間違えているからである。
金や物がないのが真因なら、それらに恵まれた人の自殺はありえない。イギリス王室の華・ダイアナ妃の、自殺未遂は5回にも及んだという。美貌といい、シンデレラストーリーといい、世界の羨望を集めた彼女も、人知れず苦しむ、一個の人間でしかなかったのだ。
苦の元凶を真剣に探求し、一歩前進した人は「煩悩」だと知らされる。仏教ではすでに「欲」や「怒り」、妬みそねみの「愚痴」などを、人間を「煩わせ悩ませるもの」として「煩悩」といわれている。
金や物がないから苦しむのではない。どれだけあっても「まだ足りない、まだ足りない」と渇する底無しの「欲」のせいである。キリのない欲に引きずられて心身を擦り減らし、心休まる時がないのだ。
その欲が妨げられると、怒りの炎で身を焼いて苦しみ、かなわぬ相手には妬みとなる。己より優れた人、きれいな人、幸せな人を見ると、吐きけがする。こんな煩悩で、朝から晩まで悶々としているのが実情だろう。
親鸞聖人が9歳で出家された比叡山でも、苦悩の原因は「煩悩」と教えられ、20年間、全身全霊、煩悩と格闘されたのである。
だが、大曼の難行までなされて聖人の知られたのは、煩悩しかない実態だった。仏教では私たちを「煩悩具足の凡夫」といい、煩悩100パーセントと説かれている。そんな者が煩悩を抑え、断ち切ろうとすることは、座っている座布団を自分で持ち上げるのと同じで、横綱でもできるはずがない。
煩悩具足と見抜いて助けてくださる弥陀の誓願によらねば、十方衆生は誰一人、助からないのである。
「しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり」
(歎異抄)
人間すべてを煩悩具足と、遠い昔に見抜いて建てられた弥陀の本願に救い摂られた聖人は、広大な阿弥陀仏のご恩に感泣なされたのである。
この弥陀の本願を疑う心を「疑情」といい、これ一つが苦悩の根元と教えられる。苦しみの原因が煩悩とさえ知っている人がめったにないのに、「疑情」といわれて、「なるほど」とうなずく人は、いないといってもよかろう。「えっ!? それ、なに!?」と驚く人、「聞いたことも、読んだこともないよ」と、みんなソッポを向くに違いない。
しかし、この真実を徹底する最も困難な道を歩まれたのが親鸞聖人なのである。