仏の正意と善導大師
「人間そうそうとして衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。灯の風中にありて滅すること期し難きが如し。忙々たる六道に定趣なし。未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。云何が安然として驚懼せざらん」
(往生礼讃)
“すべての人は、日々忙しそうに朝から晩まで、どう生きるかに必死で、刻々と命が消滅していることには無頓着である。一陣の風で消えさる灯のような存在を全く知らないように。事故や災害などで亡くなる人が、明日のわが身と何人が想定したことか。
果てしない迷いの旅路に終焉がなく、苦しみの難度海から脱出できないでいる。なのに安閑として、どうして驚かないのだろう”
「善導独り、仏の正意を明らかにされた」と親鸞聖人が『正信偈』に絶賛されている、中国の高僧・善導大師のお言葉である。
毎日、同じことの繰り返しで、人生にどんな意味があるのか全く分からぬまま、私たちは死に向かって生きている。刻々と命が縮んでいることに、驚きも慌てもせず、忙しい忙しいといいながら、内心は退屈し切っている。
その空しさは、何かで紛らわさないと生きていられないほどだから、スカイツリーができた、パンダの赤ちゃんが産まれた、死んだ、今度はオリンピックだと、悲喜こもごもの喧騒で、心の空洞をごまかす。だが、その時々刻々にも私たちは真っ暗がりの後生に向かっているのである。
迷夢に沈む、そんな私たちをご覧になって、十方諸仏の本師本仏と仰がれる阿弥陀如来は、「大宇宙最高の宝を創り、それを与えて、すべての人を必ず無上の幸福にしてみせよう」という、超世の大願を建てられた。それが、阿弥陀仏の本願である。
この無上の誓願を果たすため、弥陀は兆載永劫のご苦労の末に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を創られたのである。大宇宙のあらゆる善根功徳の結晶であるから、「無上宝珠の名号」とも「功徳の大宝海」とも言われ、蓮如上人は『御文章』に、次のように仰っている。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(5帖目13通)
“南無阿弥陀仏といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広大なことは、天の際限がないようなものである”
この南無阿弥陀仏の大功徳を与えて、平生ただ今、絶対の幸福(往生一定)に必ず救うというのが、阿弥陀仏の御心であり、仏の正意である。
中国の歴史上、最も仏教の栄えた唐の時代、各宗に高僧・名僧といわれる人物が輩出したが、この仏の正意に明らかであったのは、善導大師ただお一人だったのである。