運命は誰が決めたのか
仏法の根幹は、因果の道理。どんな結果にも必ず原因があり、それは古今東西・三世十方を貫く真理だと釈迦は説かれている。わが身に引き起こる「運命」という結果にも、寸毫の例外もなく原因がある。
運命を大別すれば、幸福という善い運命(福)と、不幸という悪い運命(禍)の二つになる。自分に現れる禍福は、誰が決めたのだろうか。シリアに生まれていたら、内戦で殺された16万人に、自分も入っていたかもしれない。なぜ、今の時代、この国に、特定の両親のもとに生まれたのだろうか。なぜ男として、あるいは女として、このような性格、才能、容姿で生まれたのだろうか。
どれだけ考えても不可解な運命だから、様々な主張がなされている。太古より世に広まっているのは、「神が作って与えた」という思想だろう。また日本では、先祖の祟りで不幸になったという信心も根強く、狐や狸の霊が憑いているからだと嘯く者もいる。
2600年前に釈迦は、それら一切を徹底的に破邪なされた。そして、自分の運命の全ては、自分の行為が生み出すという自業自得の道理を、生涯かけて詳説されたのである。
この厳粛な因果の理法を知らないから、迷った考えが氾濫している。「食と健康、医薬から環境まで」幅広く探究すると謳う生物生命学部の准教授が、「悪霊払い」と称して妻に大量の水を飲ませ、窒息死させたという。学者としての「合理性」は、どこへ行ったのか。
科学の発達した今日でさえ、こんな有り様だから、800年前の親鸞聖人の時代は、なおさら迷信がはびこっていたに違いない。悲痛なご和讃を幾首も残されている。
「かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す」
「ああ、悲しいことだなぁ、なんとも情けないことよ。日本の僧侶は、衣を着て寺に住まいをして、仏法を伝えているような格好だけはしている。門徒も家には仏壇があり、葬式は寺で勤め、形は仏教信者のようだ。しかし実態は僧俗ともに、仏法に背いて鬼神を信仰し、敬い頭を下げて、現世利益を祈っている者ばかりではないか」
「鬼神」とは、死んだ人間や畜生の霊が一カ所にとどまって、我々に禍福を与える力があると信じ、祭っているものをいう。どんな功績や才能のあった人間であろうと、後生は宮や墓に鎮まっていられるものではないし、まして他人に禍福を与える力など絶対に無いと、釈迦は説かれている。だから親鸞聖人も仏説のとおり、教え続けていかれたのである。