「心の向き」がポイント 喜捨と税金
お釈迦さまの教えに巡り会い、感激した給孤独長者という富豪があった。
ぜひ、自分の国にも仏法を広めたいと思い、精舎(寺院)を建立し釈尊に寄進する土地を探していた。
国中くまなく回り丁度、聞法に適した場所を発見したが、そこは祇陀太子の所有地であった。
何とか譲ってもらいたいと熱心に懇願する長者に、すっかり音を上げた祇陀太子は、とてもかなわぬ難題を吹っかけ、断念させようとして言った。
「そんなに欲しければ、欲しい土地だけ黄金で埋めたらよい。それだけの土地をその金と引き換えに売却しましょう」
ところが長者は大喜びして早速、その土地に金貨を敷き始めた。
みるみる半ばまで黄金色に染まってゆくのに驚いた祇陀太子、
「長者よ、待ってくれ。貴方がそこまでして、この土地が欲しいのはなぜですか、聞かせて下さい」と問い質した。
「祇陀太子さま、それはお釈迦さまに布施したいからです。
お釈迦さまが仏のさとりを開かれ、万人の救われる教えを今、説いておられます。
金や財は一時の宝。やがては色あせ滅んでいく。
しかし真実の法は、永久に輝く不滅の宝です。私は、この国に仏法を伝えたいのです」
太子の心は大きく動いた。
「ああ、あなたがそれほど尊敬される釈尊とは、どれほど尊い偉大な方でしょうか。
もう金貨は結構です。残りの土地も樹木もお譲りします。私にも布施をさせていただきたい」
かくて落成した壮大な建物が、有名な祇園精舎である。
ここで説かれた真実の法が、どれだけ後々の多くの人々を真実の幸福に導いたことであろう。
布施の功徳は幸せとなって自分に
税金は国家権力で無理矢理はぎとられるものだが、布施は強制的なものとは全く違うから喜捨とも教えられる。
布施した人の功徳になるのだから、心から提供するということで、ご喜捨ともいわれる。
布施して損に思うのは、ご喜捨ではない。
まだ自因自果の因果の大道理が分かっていないからであろう。
農家の人が田んぼに種をまくのを見て、あいつは馬鹿だなあ、あんなところに種を捨ててと思う人はない。
やがて芽が出て成長し実を結んだ秋の収穫は、すべて農家のものになるからである。
仏法は、ちょうど田んぼのようなものだと教えられている。欲深い私たちは金でも物でも、与えるとつい損をしたように思うが、逆だと教えられる。
まいた種は必ず生える。布施の功徳は幸せとなって必ず布施した本人に現れるのだ。
仏法という最高の田畑を私たちは持っている。
種をまけば、出来るものは外の誰でもない、自分のものになるのである。
種をまく場所がなかったら米も野菜もできないのだから、私たちは田畑に感謝して当然であろう。