幾億兆年からの弥陀の救い
「生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀(みだ)弘誓(ぐぜい)の船のみぞ
乗せて必ず渡しける」
(親鸞聖人)
“苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよい続けてきた私たちを、弥陀の願船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ”
「久しく沈めるわれら」とは、幾億兆年の間、なぜ生きるかを知らず苦しんできた我々全人類のことである。
「人生は苦なり」と釈迦が道破されたのは、2600年前のインドだけのことではない。いつの時代、どこの国でも、三世十方を貫く実相である。釈迦は人間の苦しみを、「生老病死」の四苦にまとめられている。生きるということは、愛する人と引き離され、大切な物を失い、楽しい時間が去っていく。人生は悲しい別れに満ちている。反対に、災害や事故、老いや病気など、嫌なものには遭わなければならない。そして最後には、「死」という最大の苦しみがやってくる。
釈迦の説かれるとおり、生きること自体が苦しみであり、「人生は楽しい」と無邪気に言えるのは、しばらくの間であろう。
だが我々は決して、苦しむために生まれてきたのではない。生きているのでもない。生まれ難い人間界に生を受けたのは、幾億兆年の迷いから救われるためである。
政治も経済も、科学も医学も、倫理・道徳、法律、文学、人間の営みは全て、生きるためにある。これらは「どう生きる」の苦しみを解決し、少しでも長く快適に生きようとするものである。例えば医学は、一分一秒でも命を延ばそうとする。だがその医学も、臓器移植までしてなぜ生きるかは、答えられない。政治も経済も皆、生きる「手段」であり、人生の目的を解答できるものは一つもない。だから世の中どれだけ便利になっても、肝心の生きる意味が分からず、人類は苦海に沈んでいるのである。
しかし、生活苦や病気で死んでしまっては、人生の目的を知ることも、果たすこともできない。幾億兆年の間、求めてきた弥陀の救いに値うまで、何としても生き抜かなければならないのだ。医学で延ばした命で、出世の本懐(人生の目的)を果たしてこそ、延命が真に意味のあるものになる。尊厳無二の目的を果たすためにこそ、科学も医学も進歩させなければならないのである。
その最も大事な「なぜ生きる」の答えを親鸞聖人は、「弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」と喝破されている(弥陀の弘誓とは、阿弥陀仏の弘い誓い<本願>のこと。それが船に例えられている)。弥陀の本願の船に乗せていただき、必ず浄土へ渡れる身になることこそ、万人共通唯一の目的だという宣言である。
「なぜ生きる」を知らずに生死の苦海で苦しむすべての人が、真に救われる道を明らかにされた方が親鸞聖人であり、世界の光と仰がれる所以(ゆえん)なのである。