カンダタは誰の心か
私たちは、自分というものを知っているだろうか。「私」とは一体何か。 どういうものなのか。
偽装事件や振り込め詐欺などがなくならないのは、悪いことだと知りながら、他人にバレなければ何をやってもいいだろう、という思いがあるからに違いない。
人間相手に生きているのである。
だが、人間が見ていようといまいと、善因善果・悪因悪果・自因自果の因果の道理は厳然として変わらないのだから、まいた種の結果は、必ず本人に現れる。
これに例外は一つもないと仏法では教えられている。
そこまで分かって、陰ひなたなく身や口を慎むようになっても、さらに心まで問題にする人はどれだけあるだろう。
誰に迷惑かけるわけじゃなし、心の中くらい、何を思っていようと自由じゃないか、と誰でも思う。
事実、人間の作った法律や倫理道徳では、言動を取り締まることはできても、心の中までは問題にできない。
しかし仏法は、その心をこそ最も重視するのである。
口や身に命じて動かしているのは、他ならぬ心だからである。「私」というのは、この「心」のことなのだ。
仏さまは「見聞知」のお方である。
「見ておるぞ、聞いておるぞ、知っておるぞ」ということで、私たちのやっていること、言っていること、自分にも気づかぬ心の奥で思っていることさえも、仏さまはすべて「見てござる、聞いてござる、知ってござる」。
果たして、仏の眼に映った私の姿はどのようなものなのだろう。
我利我利亡者の本性
芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』は、我利我利亡者の本性を、まざまざと浮き彫りにしている。
血の池地獄に垂らされた蜘蛛の糸をよじ登っていくカンダタが、ふと見下ろすと、多くの罪人たちが自分の後に続いている。思わず、大声で喚いた。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はオレのものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて、のぼって来た。下りろ下りろ」
途端に、今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下がっている所から、ぷつりと音を立てて切れた。
「他人はどうなってもよい、我が身さえ助かれば、というカンダタの無慈悲な心が、またしても地獄へ堕としたか、助ける縁のない奴よ……」
釈尊の、深いため息が伝わってくるようだ。
助ける縁のない奴とサジを投げられたのは、カンダタだけのことではなかろう。カンダタは確実に、私たちの心の奥に棲みついている。
「周囲は醜い。自己も醜い。それを目の当たりにして生きるのは苦しい」と悲嘆し、芥川龍之介は自殺した。
悪人目当てに「必ず絶対の幸福に救う」と誓われた弥陀の本願に巡り遇えた親鸞学徒の、何と幸せなことであろうか。