親鸞学徒は更に珍しき法を弘めず
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
聖人常の仰せであった。
「親鸞は、釈迦如来の教えを深く信じ、皆さんにもお伝えしているだけなんだよ」と言われている。
「ばかりなり」というのは大変強い言葉で、それ以外に何もない、ということだ。
「親鸞、更に私なし」とも断言されているから、釈迦の教えである仏教を、自らも信じ、他人にもそのまま伝えていかれたお方であることが、よく分かる。
一般には、親鸞聖人は釈迦の仏教とは違う独自の教えを編み出したから、偉大な宗教家であるかのように思われがちだが、全くの誤解である。聖人は、ご自身の考え、思想など、全く述べられなかった。90年のご生涯、ただ釈迦の教えだけを明らかにしていかれたのである。
では、釈迦の教法とは何か。
釈迦一代の教えは7000余巻の一切経に書き残されているが、その一切経を幾たびも読破された親鸞聖人は、
「唯説弥陀本願海」(正信偈)
「それは阿弥陀仏の本願ただ一つであった」と断言されている。
阿弥陀如来の本願とは、大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします仏方の本師本仏(先生)と仰がれる阿弥陀如来の本当に願っていられる御心のこと。
それは漢字36文字で表されているが、「すべての人を絶対の幸福に救い摂る」というその願心は余りにも深く尊く、われわれ凡夫の智恵では、とても理解が及ばない。そこで、弥陀のお弟子であるお釈迦さまが、先生の本意を明らかにされたのが、「本願成就文」なのである。
ゆえに、「本願成就文」漢字40文字は、一切経で最も重要な御文であり、仏教の至極、真宗の依憑といわれている。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えは、この「本願成就文」の教え以外にはないのである。
親鸞学徒とは、親鸞聖人の教えを学び、信じ、伝える人をいうが、
「信じ、伝える」には、まず正しい教えをよく学ばなければならない。正しい教えを知らねば、正しい信仰を持つことも、正しく伝えることもできないからだ。
人間の考えで進める道ではない。「私はああだった、こうなった」など、各人各様の体験話で獲られる信心でもないのだ。
真の親鸞学徒は、珍しき法も体験も、絶対に弘めない。ただひたすらに親鸞聖人のみ教え、「本願成就文」の教えを、我も信じ、全人類65億に徹底するばかりである。