まことなるかな 弥陀の誓願
笠あげて
道連れ招く 清水かな
炎天の夏、山登りの一行があった。あまりの暑さと山の険路に一人倒れ、二人へたばり、ばたばたと脱落していった。
このままでは大変だ、何とか俺だけでも登り切って見せるぞと、ただ一人勇猛精進したが、ノドはからから、疲労困憊、ついに精根尽き果ててばったり倒れてしまった。
ところがなんと、滾々と湧き出る清水がそこにあったのだ。
思わず知らず、がぶがぶと存分にのどを潤し、ああ、助かった、救われたと歓喜した後、さあ自分だけ頂上へ登ろうとなるだろうか。そうではあるまい。
道中、多くの友が倒れているのだ。笠あげて、大声でこう絶叫するだろう。
「お~いみんな、ここまで来いよ。ここに美味しい清水があるぞ~」
800年前、親鸞聖人は後生の一大事の解決に身命を賭され、「必ず救う」と誓われた弥陀の本願力に魂を貫かれた。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」 (教行信証)
弥陀の本願まことだった、"無碍の一道に救う"弥陀の誓いにウソはなかった、と大歓喜に生かされた聖人は、累々と倒れている無数の群生海に向かって、全身全霊こう叫ばれたのだ。
「聞思して遅慮することなかれ」
立ち上がれ。這ってでも進め。この道は聴聞の一本道だ。ぐずぐずせずに、このまこと、必ず聞き抜けよ、と。
人々は、何をやっても満足を知らず、物質に囲まれながらつねに不安で、心からの歓喜がない。政治経済、科学医学、倫理道徳芸術、これら人間の営みすべては、苦しみの現象面だけを見て対処するが、その根元を知らないから、未だ根本解決に至らないのだ。
では、苦悩の根元とは何だろうか。
蓮如上人は、「無明業障の恐ろしき病」と喝破されている。
果てしない過去からの、この恐ろしき心の難病に、おかされながら、全人類は誰一人、その自覚すらない。
人は皆、「一度は死なねばならん」と知っている。だが、「明日死ぬ」とは思えない。明日になればまた、「明日死ぬ」とは思えない。そのまた明日になれば……己の影を踏むことが永遠に不可能であるように、どこまでいっても
「明日死ぬ」とは誰一人思えない。だから、死は常に他人事で、自分は無関係と固く信じて生きている。
仏法の真実を聞かせていただきながら、聞いているのは上辺だけで、心の奥の奥、そのまた奥底に潜んでいる本心は、「永遠にオレは死なぬ」と仏説をはねつけ、真実を全く受け入れず、せせら笑っている。
この心が大問題。本願を疑うこの心こそ、無始より流転してきた自力我慢の親玉なのだ。いよいよ死ぬとなって初めて、腹底の本心がまっ暗がりの無明業障であることに驚く。
自覚症状なき、この心の病を治してくださるのは、宇宙の大医王たる阿弥陀仏一仏だから、釈迦は一切経の結論として、「一向専念無量寿仏」と説かれたのである。
親鸞会は、過去50年間、この釈迦の金言「一向専念無量寿仏」を忠実に説ききってきた。
親鸞会館2000畳は、聞法のための道場、親鸞会の同朋の里は、信心を語り合うために作られた心の故郷である。
聞法と信心の沙汰を繰り返し、弥陀の呼び声聞こえた一念に、無明業障の心の病は完治する。ああ、弥陀の誓願まことだったと、そのとき摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救われるのだ。