親鸞聖人の勧められた信心
「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」(聖人一流章)
蓮如上人が明言されていますように、親鸞聖人が90年のご生涯、勧められたことは「信心」一つでした。
それは他宗教でいう信心とは全く異なる、無上の信心です。
では浄土真宗で説かれるのは、いかなる信心なのでしょうか。その信心は「名号」「念仏」と密接な関係にありますから、単独で意味を知ることはできません。
それらの関係を平易に例えれば、「名号」という「薬」をのんで、「全快」したのを「信心」といいます。高熱が続き咳が止まらず、強い倦怠感に襲われていたのが、「名号」の特効薬の力で平熱になり、咳も治まり完治した状態を「信心」といわれるのです。
難病で死を覚悟した人が、新開発の治療薬で救われたら、薬を作った研究者、またその薬をのむように勧めてくれた医師に礼を言わずにおれなくなります。そのお礼に当たるのが、口で称える「念仏」です。
ここで薬に例えた「名号」とは、大宇宙最高の仏である阿弥陀仏の創られた「南無阿弥陀仏」のことであり、「六字の名号」といわれます。弥陀が、計り知れぬ年月のご苦労の末、名号を完成してくだされたのは、すべての人が重篤な病で苦しんでいるからなのです。
その病名を、「無明業障の恐しき病」と蓮如上人は仰っています。「無明」とは、死んだらどうなるか分からない、後生暗い心をいいます。
新型コロナウイルスの発生で、世界中が戦々恐々としています。
「死ぬかもしれない」という恐怖は、何ものにも勝ることを、まざまざと見せつけられます。その最も嫌な「死」に、全人類は刻一刻と近づいているのです。
たとえウイルスの感染を逃れても、死を免れることはできません。では、死んだらどうなるのか。お先真っ暗で、皆目、見当がつきません。
どれだけ考えても分からないので、死を忘れようと努めていますが、100パーセント確実な未来に目をつぶり、後生の断崖に突っ走る人生に、何の安心があるでしょう。
「人間に生まれてよかった」という満足もなく、心に影がなくならないのは、「無明業障」という病にかかっているからです。
六字の名号には、この恐ろしい難病を治し、必ず浄土へ往ける大安心に救う、超絶無類のお働きがあるのです。その大妙薬を丸貰いして、絶対の幸福になったことを、「信心」というのです。
「1日も早く信心獲得して、報謝の念仏を称える身になってくれよ」
親鸞聖人は今も、励まし、押し出してくださっているのです。