「ただ信心を要とす」
『歎異抄』は、親鸞聖人の肉声を伝える書として、多くの人々を魅了したと同時に、無数の誤解も生み出した。
今日も広く流布されている迷妄の一つが、「念仏を称えたら誰でも極楽へ往ける、と教えたのが親鸞聖人」というものである。
『歎異抄をひらく』には、二部の解説の初めに、『歎異抄』は、いかに誤解されやすいか、その現状――ある大学教授の場合と題して、かつて親鸞研究の権威といわれた東大教授の実例が紹介されている。
彼は高校の教科書に、「親鸞は、ただ一度の念仏で極楽往生が約束されると説いた」
と記述して、物議を醸したが、それは『歎異抄』一章の誤読によるものであった。
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、「一度の念仏を称えたとき」と勘違いしたところにあったのだ。
また二章には、有名な次の文章がある。
「親鸞におきては、『ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし』と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり」
これを読んで、「親鸞聖人は、ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて救われたのだ」と理解する人が、学者や知識人と評される人の中にも、非常に多い。
ほかにも、『歎異抄』には「念仏」の二文字が頻出するので、念仏さえ称えていれば救われる、と誤解する人がほとんどだ。
だがこれは、聖人の教えに対する極めて浅薄な理解からくる間違いである。
『歎異抄』は全部で十八章あるが、中でも一章は、全章が収まる最も重要な章。そこには、かかる迷信を正す一文が、こう記されている。
「弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし」
大海は芥を選ばず、弥陀の救いには一切の差別はない。
老若男女、善悪美醜、貴賎貧富の区別なく、何の隔てもなく救う弥陀の本願だが、
「ただ信心を要とす」とズバリ明記されているのだ。
唯信独達の法門
「阿弥陀如来の救いは、他力の信心一つ」と明らかにされた親鸞聖人のみ教えは、「信心為本」「唯信独達の法門」といわれる。
主著『教行信証』には、
「涅槃の真因は唯信心を以てす」。
(浄土往生の真の因は、ただ信心一つである)
「正定の因は唯信心なり」
(仏になれる身になる因は、信心一つだ)
蓮如上人も『御文章』に、
「祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり」
(二帖目三通)
と「信心肝要」を打ち出され、最も有名な「聖人一流の章」には、
「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
と「信心為本」を明言されている。絶筆は、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
(四帖目十五通)
のご遺言である。
ひらかれた他力信心
高森先生の『歎異抄をひらく』は、全編に念仏が強調されている『歎異抄』から、聖人の教えの肝要である「他力の信心」一つをすくい取って、開示された書である。
ゆえに解説で、聖人に対する多くの誤解曲解を正すために、最も繰り返し引用されているのが、一章の「ただ信心を要とす」の一言だ。
これまでの「歎異抄解説」をどれだけ読んでも、今一つ核心がつかめなかったのは、解説者自身が、「信心肝要」の聖人の教えに暗かったからであろう。だから、「一章」の「ただ信心を要とす」のお言葉が、「『歎異抄』全体を通じて数ある誤解を正す、限りなく重い聖人の発言」とは、毛頭読めなかったのだ。
解説3(152ページ)の最後は、次の文章で締めくくられている。
「肝心の『他力の信心』『信楽』を知らずして、『歎異抄』を知らんとするは、木に縁りて魚を求むるがごとし、と牢記すべきであろう」
では、二章の「ただ念仏して」とは、どんなことなのか。
解説6(172ページ)に詳説されている。学問では決して知りえぬ、驚天動地の「ただ」である。一切経が収まる「ただ」であり、「他力信心」をあらわす「ただ」である。この「ただ」の二文字を体で読み破るために、我々はこの世に生まれ出たのである。