「雑行」が分からぬのは なぜか
朝晩、拝読する『聖人一流章』には「もろもろの雑行をなげすてて」とあるが、浄土真宗の人たちは雑行が何やら全く知らない。
自分の力で何とか後生の一大事解決しようとするのを「自力」といい、そんな心で「後生助かりたいとやる善」を「雑行」という。
だが真宗門徒といっても名ばかりで、後生が少しも問題になっていないから、「自力」も関係なければ「雑行」も出ようがない。
だから「雑行を捨てよ」を「善を捨てよ」と聞き誤り、諸善に向かわないから、邪教からも笑われる始末だ。
仏教は後生の一大事に始まり、その解決で終わる。大宇宙の仏方から見捨てられた、地獄より行き場のない罪悪深重の我々は、本師本仏の阿弥陀仏によらねば絶対助からないから、釈迦は四十五年間、弥陀の本願ただ一つ説かれた。
親鸞聖人はそれを『正信偈』に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と教えられている。
親鸞聖人も九十年の生涯、珍しい体験話など一切語らず、釈迦の教法を純正に伝えられたから、弥陀の本願以外、教えられたことはなかった。
蓮如上人も弥陀一仏に向けと徹し抜かれ、「その外には何れの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」と説示されている。
だが後生の一大事が分からなければ、〝後生助かりたい〟とも思わないし、それを助ける本願も分かるはずがない。
これでは全く仏法が始まらないから、弥陀の本願に遇わせるのが目的だった釈尊は、四十五年間の説法ほとんどを、後生の一大事を知らせるためになされている。
仏法の出発点
釈迦が弥陀の願意に従って、まず一切経ほぼ全巻を費やし教えたのが「因果の道理」である。
「仏教の根幹」と言われる。
「善因善果 悪因悪果 自因自果」の道理は三世を貫くから、現在の種まき(因)を見れば、来世の果報の善悪も分かると仰せだ。
ここで「種」と言われるのは、心と口と身体の行為である。
中でも口や身体を動かす元は「心」だから、仏法では心で思う行いを最も重視する。
我々は今、何を思い、行っているか。人間の実相を、釈迦はこう説破される。
「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」 (『大無量寿経』)
一生造悪の自己を徹見すれば、後生に恐ろしい結果が惹起することは必定だ。
この一大事に驚けば必ず、悪をやめ善をしようと「廃悪修善」の心が起きる。ここで初めて「雑行」が出てくるのだ。
釈迦の大雄弁をもってしても、ここまで導くのは並大抵ではなかった。
信仰が進んで後生が問題になった人でなければ、自力も雑行も分からず、雑行が廃って助かることもあるはずがない。
捨てよと言われる「雑行」を知るには、まず後生の一大事を知らねばならないのだ。
これが仏法の出発点である。