雑行が廃らぬ
「そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて」と、朝夕『聖人一流の章』で教えられているが雑行が廃らない。
煙草のまない人に"煙草のむな"と言う人がいないように、"煙草止めよ"、と言われるのは、煙草をのんでいる人にである。
同じく、雑行を棄てよ、と言われるのは、雑行をやっている人にである。
雑行とは、一大事の後生に驚き、弥陀一仏に向かい、なんとか後生助かりたいと思い、真剣に励んでいる諸善をいうのである。
後生助かりたいの思いもなく、真剣に諸善もせず、弥陀一仏にも向かってない人に、雑行を棄てよと言っても、分からぬのが当然である。
雑行と言われるものが、問題になるところまで進んでいないからだ。
なぜ真剣に諸善もせず、弥陀一仏にも向かないのかと言えば、後生の一大事が問題になっていないからである。
後生の一大事が、なぜ問題にならないのかと言えば、三世因果の道理が徹底していないからだ。
釈尊が先ず、因果の道理を教えられた仏意が知られよう。
阿弥陀仏の19願は、少しは諸善ができる、少しは助かる手がかりがあるだろうと思っている自惚れ心を粉砕し、雑行を棄てさせる方便願である。
この阿弥陀仏の19の願意を開説されたのが釈尊の『観無量寿経』であり、"機の真実"が説かれた経とされている。