親鸞学徒の本道の要諦
親鸞聖人750回忌に向けて、真宗大谷派の京都教務所から末寺に、「親鸞聖人のお言葉に学ぶ」と題した紙が配付されたのに驚いたという親鸞学徒の声が多数届いている。
これまで、大谷派の出版物や配付物には、決まって清沢満之や曽我量深の言葉があふれていたが、今後は、ほかの学者の言葉などでなく、親鸞聖人のお言葉で布教をしようということなのだろう。
えっ、何を今さら、と思う親鸞学徒が多かったようだ。
親鸞聖人のお言葉を提示して、その正しい意味を丁寧に伝える布教は、親鸞学徒なら当然のことなのだが、「親鸞聖人の教え」の看板を掲げながら、それが今までなされてこなかったことが、残念ながら事実であった。
結果は衰退の一途だが、その一方で、どうして親鸞会は躍進を続けるのか。本願寺の幹部が親鸞会館まで訪れ、原因探求した結果、ようやく親鸞学徒の本道に気づいての方針転換ならば幸いだ。
さらに親鸞学徒が驚いているのは、彼らが「浄土真宗」から「浄土」を外し、今まで後生や浄土を全く説いてこなかった実態である。西方浄土を否定し、弥陀や浄土を観念的にみる迷いを仏説に混入してきたからだ。
親鸞聖人は、かかる邪説を、
「自性唯心(じしょうゆいしん)に沈んで浄土の真証(しんしょう)を貶(へん)し」
と、『教行信証』に痛烈に批判されている。本願寺が今回、ようやくこのお言葉に学ぼうとしているのは、まさにこれが、彼らが信奉してきた“近代教学”そのものを粉砕された聖人の舌鋒であるという自覚があるからなのか。だとしたら、彼らは今後、浄土を門徒にどう説明するおつもりだろうか。
こうした重大な事実から知らされるのは、蓮如上人や覚如上人が示された親鸞学徒の本道をゆくとは、かくも困難な事である、という現実である。自分の考えや、
「私はああだった」「こうなった」の私事なら容易く言える。今日もそのようなものはあふれている。
しかし、それら私事を一切説かれず、専ら親鸞聖人の正統なみ教えを開顕なされた蓮如上人が、いかに稀有なお方なのか、改めて深くかみしめずにおれない。
もう一つ、親鸞学徒の本道をゆく上で、重要なことを確認しておこう。それは、善知識方には、
「○○は信心獲得していた」
「△△は信心決定していると思う」など、個人名を挙げて「信・不信」を仰ったという記録はどこにも見当たらない、という事実である。
なぜだろう。
他人の信心は、たとえ善知識であってもハッキリ分かるものではないからか。大体分かっていられても、他人の「信・不信」を言うべきではないからか。いずれにしても、全くそのようなお言葉は見られない。
善知識方も仰らなかったそんなことが、日常茶飯事に話されているところがあるとすれば、自分たちは、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも分かられなかったことが、ハッキリ分かるとでも思っているのだろうか。
たとえ善知識方が、ほぼ分かっていられても「言うべきことでも、書くべきことでもない」と自覚なされて、あえて仰らなかったとすれば、親鸞学徒は、なおさら使うべき言葉ではないのだ。
他人を指して、「あれは信心獲得している」などと平然と言えるのは、人智で判断できる程度の信心だからである。知識から信心を与えられる秘事法門の者たちと同程度か、類似すると思われるのも当然であろう。