人生の目的は「往生一定」
弥陀の救いを親鸞聖人は「平生業成」と喝破されている。「平生」とは生きている今、「業」とは人生の大事業であり、人生の目的をいう。
我々は何のために生まれ、生きているのか。長生きしてもせいぜい100年。災害や事故に遭い、若くして亡くなる人も多い。近年、大型台風や記録的豪雨が、全国に頻発している。そのたびに対策が真剣に論じられるが、川の氾濫一つとっても、堤防をどれだけ高く、どこまで広範囲に築けばよいのか、その莫大な予算をどう捻出するのか、議論は尽きない。
政治も経済も、科学も医学も、人間の営みは全て、少しでも長く命を守るためにある。だが、それらを総動員したところで、200年も300年も守り続けることはできない。結局、自分の命は自分で守るしかないと、あきらめるしかないのか。
しかし自分の命を守ろうとするのは、100パーセント負ける戦いなのである。絶対、負ける戦争を始めるほどの愚行はないが、人質を取って立て籠もり、警官に包囲された強盗だけが、無駄な抵抗をしているのではない。すべての人は無駄な抵抗を続けた揚げ句、刀折れ矢尽きて、この世を去るのだ。
では次の世、どこへ旅立つのだろうか。今生の旅が終われば、来世の旅が始まる。行き先は、どうなっているのか。「悪いことはしていないから、天国だろう」と楽観的な人もいるだろう。立派な墓を建て、そこに入るつもりの人、死んだら無になると考える人もいるだろう。
来世を否定していた人でも、肉親や恋人を亡くすと、墓前で真剣に手を合わせ、頭を下げている。故人の霊がそこにいると信じなかったら、ナンセンスな行動だ。後生は無いように思ったり、有るように思ったり、ハッキリしていないのが実態であろう。
100パーセント確実な後生が暗ければ、行き先を知らずに飛んでいる飛行機と同じである。機長から「当機のエンジンが止まりました。どこに落ちるか分かりません」とアナウンスが入ったら、墜落に近づくフライトそのものが地獄になる。
来世の行き先に暗い心を抱えて、現在を楽しめるはずがなかろう。
エレベーターでさえ、行き先を指定しなければ、「行き先ボタンを押してください」と催促してくる。エレベーターに乗る時も、「5階で買い物」「10階で会議」という目的が必ずある。誰が目的なしに、あんな狭い箱に入るだろうか。
自分の行き先を知らず、「なぜ生きる」に暗ければ、人間に生まれた歓喜がないのは当然であろう。
我々は決して、苦しむために生まれてきたのではない。弥陀に救われ、いつ死んでも極楽参り間違いない「往生一定」になるために、生きているのだ。後生の行き先が、無限に明るい無量光明土になれば、現在から底抜けに明るい絶対の幸福に生かされるのである。
この「往生一定」という人生の大事業が、平生に完成することを、親鸞聖人は「業成」の「成」の字で表されているのだ。「平生業成」の教えを聞き、なぜ生きるの答えを知らされた人には、寸刻も無駄はないのである。