真剣な聞法の勧め
「一つことを聞きて、いつも珍らしく初めたるように信の上にはあるべきなり。ただ珍らしきことを聞きたく思うなり。一つことを幾度聴聞申すとも、珍らしく、はじめたるようにあるべきなり」
(蓮如上人)
“信を獲た人は、同じ話を、いつも初めて聞いたように聞けるのである。人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、同じことを聴聞しても、初事と聞かなければならない”
釈迦一代の教えは、「南無阿弥陀仏」の大功徳一つを説かれたものである。それは限りなき無上甚深の功徳だから、百千万劫かけても説き尽くすことはできない。蓮如上人が「無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」と仰せのとおり、名号六字は、どれだけ説いても大海の一滴にもならぬ、無尽の法蔵なのである。
後生の一大事の解決は、弥陀からこの名号を丸貰いした一念で大満足する。人間に生まれた目的は、平生の一念に完成するのである。
だが、弥陀より賜った無限の功徳は、何百年聞いても、聞き終わることもなければ、聞き飽きることもない。無尽蔵の教えを頂くから、何度聴聞を重ねても、皆、初事になるのである。
この底無しの宝を頂いていなければ、仏法が底無しの教法だとは知る由もないだろう。だから、氷山の一角も分かっていないのに、「もう分かった」と早合点したり、「またあの話か」と不足を言って、珍しい話を求めるのである。
中には「オレは救われたから、もう聞く必要は無い」と言う人さえあるが、無尽の教えを頂いていない告白であろう。その誤りを、蓮如上人は警告されているのである。
違った話を聞くのではない。同じ話を初事と聞け、と蓮如上人は慈誨されている。真剣に聞法すると、幾たびも聞いた同じ話が、「よく知らされた」「そういうことであったのか」と驚くことがある。話が変わったのではない。聞く人の信仰が進んだから、同じ話が、初めて聞いたように感じられるのだ。
それはちょうど、電車が走ると、外の風景が変わっていくようなものである。スピードが増すほど、景色の変化も加速する。止まっていると、景色は変わらない。
信仰が進むほど、同じ話が初事と聞けるから、そういう真剣な聞き方を蓮如上人は勧めておられるのである。
どれだけ聞いても飽きぬ、無尽の法蔵・南無阿弥陀仏を頂いて、見事出世の本懐を果たすまで、真剣な聞法に身を沈めよう。