弥陀の救いは 宿善まかせ
蓮如上人は、ご臨末に、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(御文章4帖目15通)
どうか皆さん、命のあるうちに、信心決定してもらいたい。これ一つが蓮如の願いです、と仰っています。
信心決定とは、阿弥陀仏の本願に一念で救い摂られ、絶対の幸福になり、来世は浄土往生と明らかな身になることをいいます。私たちは、この弥陀の救いに値うために、生まれてきたのです。
続いて、「信心決定は、まことに宿善まかせ」と蓮如上人は仰っています。病気になれば医者まかせ、飛行機に乗ればパイロットまかせ、と言われるように、信心決定できるか否かは宿善による、との教示です。
『御文章』には、「宿善のない人は助からない」「どのお経やお聖教にも、宿善で決まると説かれている」と記されています。
それほど重要な宿善とは、どんなことなのでしょうか。
宿善とは宿世の善根のことです。宿世とは過去世のことですが、今生も信心決定するまでは宿世におさまります。善根とは善い行いのことです。
過去に仏縁あって、弥陀の本願を聞き、善い行いをしてきた人は宿善のある人、そうでない人は無宿善といいます。
宿善があるといっても、過去の仏縁は人それぞれですから、宿善は一定ではありません。厚薄があります。
蓮如上人はこれを、「宿善も遅速あり」と表現されています。
宿善の厚い人は、早く弥陀の救いにあえるが、宿善の薄い人は、遅くなると仰っています。
阿弥陀仏の大慈悲心に、毛頭差別はありませんが、弥陀の救いに前後があるのは、偏に宿善の厚薄によるのです。
では、宿善の薄い人はどうすればいいのでしょうか。
蓮如上人は懇切に教えられています。
「弥陀の光明に遇いて、早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」
何よりも真剣な聞法が肝心なのです。
よって「仏法は聴聞に極まる」と言われます。聞法に勝る宿善はないのです。「火の中をかき分けて仏法を聞け」「仕事やめて聞け」と厳しく仰るのは、そのためです。
どうしても聞けない時は、朝夕の勤行はもちろん、日常生活では布施(親切)や持戒(約束を守る)などの修善を心がけるのは当然です。
かかる阿弥陀仏の善巧方便によって、無上の信心を発起(信心決定)させていただく時が必ず来るのです。