一切の滅びる中に 滅びざるまこと
「諸行無常」は、お釈迦様の教えの根本である。「諸行」とは万物、「無常」は続かないことである。
さんさんと輝く太陽も、あと50億年で燃え尽きるといわれる。太陽も無常なら地球も無常。
親子、夫婦、健康、財産、地位、名誉、何一つ常住不変のものはない。大きく変化するか、少しずつ変わるかだけの違いで、つぎの瞬間から崩壊につながっているのだ。
どれだけ政治や経済、科学・医学が変わっても不安は絶えず、火宅のような人生にならざるをえないのは、そのためである。
私たちは何かを信じなければ生きられない。だが何を明かりにしようと、この世のすべては必ず崩れ去るとお釈迦様は説かれる。やがて必ず崩れる目標に向かえば、どうなるだろう。
かつて日本の知性といわれた江藤淳氏には、病床に伏した妻を最後まで支える目標があった。だが夫人が亡くなると、「ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行く」(『妻と私』)と、自ら命を絶っている。
悲しいことだが、これは、江藤淳氏だけのことではなかろう。すべての人は同様に、やがて必ず自分を捨て去るものを頼りに、生きているのだ。厳粛な「諸行無常」に例外の無いことを、親鸞聖人は、こう教示されている。
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに」(歎異抄)
"火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない"
自分の信ずるものは永遠だと幻想するすべての人への、鉄槌である。しかし、私たちは決して、苦しむために生まれてきたのではない。絶対に見捨てられることのない、滅びざる幸福を求めて生きているのだ。
万人の求めてやまぬ永遠の幸福の厳存を、親鸞聖人は続けて「ただ念仏のみぞまこと」と道破されている。「念仏のみぞまこと」とは、「弥陀の本願のみぞまこと」にほかならない。一切の滅びる中に、唯一つ滅びない真実は「弥陀の本願のみ」であると親鸞聖人は教えられている。
弥陀の本願は、どんな人も必ず絶対の幸福に摂め取り、永久に捨てない誓いである。ひとたび弥陀より摂取不捨の利益を賜れば、いつでもどこでも満足一杯、喜び一杯、人生本懐の醍醐味が賞味できるのだ。親鸞聖人の、歓喜の証言を聞いてみよう。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)
"まことだった、まことだった!
摂取不捨の利益、本当だった!
弥陀の真言ウソではなかった!"
一切の滅びる中に、滅びざる摂取不捨の幸福こそ、私たちの願いであり人生の目的なのである。