仏教の目的は「抜苦与楽」
「抜苦与楽」とは、釈尊(お釈迦さま)が説かれた7千余巻の一切経の目的を、漢字4字で表された仏語である。
「抜苦」とは苦しみを抜くこと、「与楽」とは楽しみを与えることである。
苦しむために生まれ、生きている人は一人もいない。誰もが皆、苦しみをなくしたい、重い苦しみを軽減し、楽になりたいと思って生きている。政治も経済も科学・医学・倫理・道徳・スポーツなど、我々の営みすべては、苦しみを和らげ、なくすためにあるのである。
どんなにあがいてもどうにもならず、こんなに苦しいのなら死んだ方がましだと、自殺する者が近年増加し、社会問題となっているが、これら自殺者も、苦しみから解放されたい一心であろう。
人は何のために生まれてきたのか、何をするために生きているのか。全ての人が朝から晩まで考え努力していることは「抜苦与楽」であり、これこそが「人生の目的」なのである。
肉体の苦痛なら、病院で治療を受ければ解消されようが、仏教で「抜く」といわれる苦しみは、肉体の苦ではなく、蓮如上人が『御文章』に、「三世の業障」と言われているものである。
「三世の業障」とは、三世を通して私を苦しめているものをいう。「三世」とは、過去・現在・未来のことで、私たち一人一人に、人間として生まれる前の過去世、今生きている現在世、死んだ後の未来世があるのだと、仏教では教えられる。
年でいえば、去年なしに今年はない。去年の今頃何があったか、たとえ忘れてしまっても、なかったのではない。必ず、過去があって現在があり、そして未来に続くのである。
昨日食べた物さえ忘れがちな私たちは、人間に生まれる前の過去世など知る由もないが、釈尊は厳然と三世の実在を説かれている。
そして、過去・現在・未来の三世を貫いて私たちを苦しめる「三世の業障」こそが、すべての苦悩の根元であると喝破されている。
肉体の苦しみは、100年ほど我慢すれば終わるが、「三世の業障」は、生まれる前から現在も、死んだ後も苦しめる、永遠の生命の病なのである。
蓮如上人はこれを、「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」とも『御文章』に、いくたびも教示されている。
阿弥陀仏のつくられた南無阿弥陀仏の名号を一念に賜れば、この「無明業障の恐ろしき病」が治り、肉体の救いとは全く次元の違う幸せ、絶対の幸福に救われる。これが「楽を与える」ということである。
「この(南無阿弥陀仏の)大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我ら衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障、一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
(御文章5帖目6通)
“過去・現在・未来の三世を通して苦しめてきた迷いの親玉が、弥陀より「南無阿弥陀仏」の大功徳を頂いた一念で断ち切られて、同時に、51段高とびさせられ正定聚という絶対の幸福に救い摂られるのである”
※正定聚の位を等正覚の位ともいう。さとりの52位の中の51段目の位。
苦しみの根元である「三世の業障」を一念で抜き取り、この世も未来も永遠に変わらぬ絶対の幸福を与える教えが仏教なのである。