信心の沙汰をせよ
「後世の無知が悲劇を生む 死ねば本当に楽になれるのか」
誰でも死ねば仏になれるのではない。死んだらどうなるか分からない無明の闇こそが、この世も不安にし、未来後生の一大悲劇を生み出す元凶であると教えられている。
まさに無明の闇は、三世を貫く苦悩の根元なのである。
だから、「無明の闇を破する慧日」・破闇満願の弥陀の誓願に生きる親鸞学徒でありたい。
それにはまず、自分自身の心に仏法がコトッと落ちるまで、よくよく聴聞させていただくことが大事である。
聞きっぱなしでは、必ず聞き誤りがある。
正しく理解していないことが、山ほどある。
だから蓮如上人は、「信心の沙汰をせよ」と重ねて言われている。
「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、わが信心は・ひとの信心は如何あるらんという信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということはかつて是非の沙汰に及ばざるあいだ言語道断あさましき次第なり。
所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て信心の沙汰をすべきものなり」(御文章一帖目十二通)
何のための会合か。信心の沙汰をすべきである、それをしないのは「言語道断、あさましい」とまで厳しい。
「物を言え、物を言え」
「物をいわぬ者は恐ろしき」
「信・不信ともにただ物を言え」
「物を申せば心底も聞え、また人にも直さるるなり」(御一代記聞書)
理解したつもりのことを、いざ自分の口で語ってみると、よく聞くことは難しいと実感する。
聞き誤りを、他人から正される縁にもなる。
かかる蓮如上人の懇切な教導により、北陸布教の拠点として吉崎御坊を構えられると、たちまちその周辺に、多くの多屋が立ち並んだ。
多屋とは、聞法する場所のそばに建てられた、門徒の宿泊所である。
各地から参詣した人々が、この多屋に宿泊し、聞法しながら深夜まで仏法讃嘆し、信仰を深め合ったのである。
聞法のために、移住して家を建てる門徒も現れた。
わずか二年余りの間に、二百軒近い多屋や民家が軒を並べるようになったという。
かくて、「虎狼のすみか」とまでいわれた北陸の一寒村が、たちまち広大な寺内町に変貌したのだ。
仏法は聴聞に極まる。
すべては真剣な聞法で、信を獲て、浄土往生の本懐を果たすためである。