更に珍しき法を弘めず 親鸞学徒唯一の使命
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
(蓮如上人)
十方諸仏は皆、本師本仏・弥陀如来のお弟子である。地球の釈迦もその一人だから、弟子の使命に生涯を貫かれている。仏法では、弟子の任務は、先生の御心を正しく伝える以外にないし、あってはならない。世間事なら、師匠を超えてこそ恩返しと言われることもあろうが、仏法では、師の教えを絶対忠実に伝えるのが、弟子の唯一の務めである。
だから釈迦は生涯、自分の計らいを一切入れず、無上仏(弥陀如来)の御心一つ、説いていかれた。
それを親鸞聖人は『正信偈』に、
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
釈迦一代の教えは、無上仏の御心(本願)唯一つ説かれるためであったと断言されている。
師に対するこのような姿勢は、仏教では厳然と一貫しているから、親鸞聖人にも、独自の珍しい教説など一つも無い。それはご自身が、
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
と仰っていることから明白である。釈迦如来の説かれた仏法を、自らも信じ人にも伝えているだけだと確言されている。
「親鸞さらに私なし」とも仰っているように、「私は、そう思わない」「私には、あわない」など自身の思いは全く交えず、釈迦が生涯、説かれた「無上仏の本願」一つを開顕された方が親鸞聖人なのである。
私たち親鸞学徒の使命もまた、更に珍しき法を弘めず、親鸞聖人の教えを正確に伝える以外にないのは当然であろう。そこに自分の「考え」「計らい」「判断」を、決して混在させてはならない。蓮如上人は、ある時、親鸞聖人のことを聞かれて、こう答えられている。
「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも開山のめされ候ように御沙汰候」
(御一代記聞書)
“なぜ親鸞聖人が、そのようになされたのか、私も知らない。親鸞聖人のなされたとおり、この蓮如はするのだ”
と仰せである。
自分を入れず、親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願をお伝えするのみに生涯を投じられた蓮如上人を鑑として、親鸞学徒の本道を進ませていただきたいものである。