親鸞聖人の説かれた「信心」とは

同朋の里のあずまや

 元旦は宮参り、結婚式は教会、葬式は寺と、宗教儀式をごちゃまぜにしているのが日本の特徴である。ところが「あなたは何を信心していますか」と聞かれると、「無宗教です」と答える日本人が多い。中には、しょせん宗教など、弱い人間がすがるものと軽蔑し、無信仰を誇っている者もある。

 そんな人たちは、「信心」といったら古くさい、自分とは関係ないものだと思っているのだろう。だが広くいえば、「信心」とは「心で何かを信じること」であり、宗教を信ずるだけが「信心」ではない。

 人は何かを信じなければ、一日たりと生きてはいけない。病院で出された薬を分析もせずのむのは、医師を信じているからである。車を運転する時も、対向車のドライバーの精神状態は調べようがないから、安全走行をしてくれると信じるしかない。理髪店でカミソリをあてられながら気持ちよさそうに寝ているのは、床屋を信用し切っているからである。

 それだけではない。明日も生きておれると、「命」を信じている。朝、顔を洗う時に、これが人生最後の洗顔と泣いている者が、どこにあろう。まさか今日死ぬとは、夢にも思っていないから、明日の計画どころか、来月、来年の予定まで考えている人ばかりである。

「信じる」とは、頼りにすることであり、何かをあて力にしていれば、それはその人の「信心」なのである。いつまでも元気でいられると思っているのは、健康信心。夫は妻を、妻は夫を信じ、親は子供を、子供は親を頼りに生きている。金や財産の信心もあれば、地位や名誉の信心もある。共産主義者は「無宗教」だが、マルクスの提唱した主義・思想を信じているのだから、「無信心」ではない。

「オレは何も信じない」と強がるのは、自分の能力や体力を信じているだけであろう。
「生きる」とは「信じる」ことであり、何の信心も持たない人は、ありえないのである。

裏切られた時、苦しむ

 ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時、苦しまなければならない。病気で苦しむのは、健康に捨てられたからであり、失恋に泣くのは、恋人信心が崩れたからである。しかも深く信じていればいるほど、裏切られた悲しみや怒りは大きくなる。

 我々は決して、苦しむために生まれてきたのではない。すべての人の生きる目的は、幸福である。肝心なのは、何を信じれば、絶対に変わらぬ真の幸福になれるのか。これこそ、全人類の最大関心事であろう。

 だが私たちの明かりにしているものは、たとえしばらくは「幸せだ」と思えたとしても、やがて必ず壊れるものばかり。臨終には総崩れになると、蓮如上人は教戒されている。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」
(御文章)

 かねてから頼りにし、力にしている妻子や財宝も、死んでいく時には、何一つ頼りにならぬ。みんな剥ぎ取られて、一人でこの世を去らねばならない。

 こんな悲劇の滝壺に向かう全人類を、阿弥陀仏だけが「われ一人助けん」と奮い立たれ、「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのである。この無上の大願を、阿弥陀如来の本願という。

「自力」とは「本願を疑っている心」

 古今東西の人が苦しんでいるのは、やがて裏切るものばかり信じているからだ。真の幸福になりたければ、絶対に裏切られることのない、弥陀の本願まことを信じなさいよ、と教え勧められた方が親鸞聖人なのである。

 聖人は、その「阿弥陀如来の本願」を信じている信心を、「自力の信心」と「他力の信心」に峻別されている。

 まず自力信心から解説しよう。この弥陀の凄い誓いを、素直に信じられる者は、一人もいない。聞いた者は必ず、「本当に絶対の幸福などあるのだろうか」「私のような者が、そんな身に助けていただけるのだろうか」と疑う。このような、弥陀の本願を疑っている心を「自力」という。

 弥陀のお約束どおり絶対の幸福に救われる一念(何兆分の1秒より、もっと短い時間の極まり)まで、本願に対する疑心は晴れないから、そんな人の信心を「自力の信心」というのである。これは、弥陀の本願を聞いて初めて起きる信心であって、仏とも法とも知らぬ者には、「自力」も「他力」も問題にならない。

 今日、出産の無事を祈って「安産阿弥陀如来」なるものを信心している者がいるが、一時の幸福を求めて、ニセの阿弥陀仏を拝んでいるのだから、聖人の説く自力信心とは無関係である。他にも神仏に手を合わせ、商売繁盛や病気平癒、学業成就などのゴリヤク(相対の幸福)を求めている〝世間一般の信心〟は全て、「絶対の幸福に救う」弥陀の誓願とは無縁であり、「自力の信心」とは決していわれない。

自力・他力の水際を

 次に「他力の信心」とは、弥陀の本願力で絶対の幸福(往生一定)に救い摂られ、自力が廃って「本願まことだった」と疑い晴れた心をいう。聖人が『教行信証』の初めに

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」

と記され、「弥陀の本願まことだった、ウソではなかった」と慶喜されているのは、この他力信心を獲得された告白である。続けて聖人は、

「聞思して遅慮することなかれ」

と仰り、片時も急いで決勝点まで聞き抜くよう押し出されている。

 この親鸞聖人のご勧化に従い、自力他力の水際を、真剣に聴聞しよう。


あなたが仏教から学べるたった一つのこと

 

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