無駄な努力は一つもない
因果の道理は仏教の入り口であり、教えの定規である。仏教の根幹と言われるゆえんだ。
因果の道理とは、運命(幸・不幸)は、行為によって決まることを明らかにする真理であり、その関係をこう説かれている。
善因善果
善い因(行為)をまけば、善い結果(幸せ)が現れる
悪因悪果
悪い因(行為)をまけば、悪い結果(不幸)が現れる
自因自果
自分のまいた因(行為)の結果(禍・福)は自分に現れる
すべての人は、幸福を求めて生きている。それには善い行いをしなければならないと、「善因善果」を信じているから、善に努めるのである。
退職した人が、よく「仕事を下さい」と口にするが、のんびり休める日曜日を楽しみにしているように、好んで働きに出たい人はないだろう。欲しいのは「仕事」ではなく、得た給料で好きな物を買う「幸福」に違いない。我慢して会社に行くのは、働くという行為が、幸せを生み出すからである。
週休二日をやめた公立小中高は、この2年で倍増している。合格するには、勉強という善い行いをしなければならないと考えてのことだろう。
反対に悪い行為をすれば、必ず苦しみが引き起こる。危険ドラッグに手を出さないのは、中毒になったり、興奮して事故を起こしたりして、身を滅ぼすからである。
このように自分の行為(因)の善悪が、自分の禍福(果)を決定する。いくら他人がリハビリに励んでも、その結果は自分には現れない。苦しくても自分がトレーニングしてこそ、自分のためになる。全て自因自果だからである。
仏教では、私たちのやった行いは全て、目に見えない「業力」となって残ると教えられている。善い業力には善果を、悪い業力には悪果を生み出す力がある。しかも、この業力は絶対に消えることがないから、「業力不滅」という。
業力は、禍福という花を咲かせる種のようなものだから、「業種子」ともいわれる。
私たちは毎日、心と口と身体で、無数の業種子を畑にまいている。その種は、腐ることもなければ、無くなることもない。まかぬ種は生えないが、まいた種は必ず、自分が刈り取らなければならないのである。
何かを一瞬、思っただけでも、それは心の行いだから、必ず報いがある。微細な種だからといって、まいたのに「何の結果も生じない」ということは、絶対に無い。善きにつけ悪しきにつけ、「やってもやらなくても同じ」「何にもならん」という行いは、億に一つ、兆に一つもないのである。
「知っただけでは、何にもならないのでは」という疑問は、この因果の大道理をよく知れば、氷解するだろう。
無量光明土に進む仏法者は、因果の理法を深信し、どんな小善もおろそかにせず、光に向かわなければならない。