「仏法に明日はない」聞法の覚悟
切迫する巨大地震の兆候に、政府も科学者も頭を抱えている。だが、たとえ地震や津波を防いでも、人が死ななくなるのではない。どんな病気にかかるやら、天災、事故に巻き込まれるやら、時限爆弾はここかしこに埋められている。何人も、死を免れることはできないのだから、「死」は、万人の100パーセント確実な未来である。
死んだら、どうなるのか。後生は有るのやら無いのやら、有るとすればどんな世界か、サッパリ分からない。お先真っ暗な状態であろう。先の見えぬ闇の中を突っ走る私たちに、本当の安心があるはずがない。この未来の根元的な不安から、一切の不安、苦しみが現れるのである。後生の行き先が分からぬほどの大問題はないから、仏教ではこれを「後生の一大事」といわれている。
そこで大宇宙の仏方の師である阿弥陀仏は、われらの一大事の後生を解決して、いつ死んでも極楽浄土へ往けるとハッキリした「往生一定」に、一念で救い摂ると誓われている。では、どうすれば平生の弥陀の救いに値えるのだろうか。
弥陀の救いは「聞く一つ」。釈迦も親鸞聖人も、火中突破の真剣な聞法を勧められている。蓮如上人のご教導も、次のように厳しい。
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事、浅ましきことなり。『仏法には明日ということはあるまじき』由の仰せに候」
(御一代記聞書)
〝仏法は世間の仕事(世間の隙)をやめて聞け〟と訓戒されている。だが、そんなことを言われたら誰でも、「無茶苦茶、言うな。仕事やめたら、どうやって食べていくんだ。生きていけんじゃないか」と反発するだろう。
その心情はよく分かるが、考えてもみよう。では、食べていればいつまでも死なないのか。もちろん、そうではない。無常の風に誘われたら、食料を山ほど残したまま、後生に突っ込まなければならないのである。果たして、その後生に旅立つ準備は、できているのか。仕事は生きる手段であり、目的ではない。だから、仕事をいくらやっても、「これで満足して死ねる」という心にはなれないのだ。「いつ死んでも悔いなし」と満足できる人生の目的は、後生の一大事の解決一つなのである。「人生の目的と手段を間違えてはならないよ」という蓮如上人のご親切からの教導と拝さずにいられない。
まさか今晩死ぬとは、誰も思っていないだろう。明日はあると、固く信じている。だが2年前の3月11日には、明日を信じていた2万もの方々が、容赦なく後生に押し出されたのだ。仏法では、「明日という日はない」と教えられている。今日が人生最後の日となったら、仕事を片付けてから仏法を聞こうなどと、とても思えないだろう。まだまだ生きるつもりだから、仏法が世間事より軽くなるのである。
大宇宙より重い後生を解決する今の一座の法筵は、天地より重いことを牢記しなければならない。その大事な仏法を聞くためにこそ、仕事も食事も健康管理も、一切が意味を持ち、大事になるのである。
親鸞聖人はなぜ、仏法を聞かなければならないとおっしゃったのか