伝えたいことがある
伝えたい、ことがある。
知らせたい、ことがある。
100年、1000年後の人々にも、どうしても分かってもらいたいことがある。
燃え滾る親鸞聖人のその御心が、840字、一字一涙の『正信偈』となって、今日の私たちに届けられている。その冒頭が次の2行だ。
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。
仏教と聞くと、死んでから救われる教え、と皆思っている。弥陀の本願といっても、死後の極楽参りか、ぐらいに考えている人がほとんどだ。
万人のその誤解を正し、弥陀の救いは〝今〟であり、その救済は如何なるものかを明示し、人生の目的を明らかにされたのが親鸞聖人である。
2度の繰り返しが意味するのは、千回でも万回でも言わずにおれない、無限に書かずにいられない、まさに聖人、魂の絶叫なのだ。
弥陀の救いは、死んでからの夢物語ではないぞ、この世で救ってくださるんだぞ。それは、何時とはなしでも、ぼんやりしたものでもない、救われたら火に触ったよりもハッキリするんだぞ。だからハッキリするまで求め抜けよ、と私たちに日々、説法してくださっている。
我々を救ってくださる仏は、大宇宙広しといえども、本師本仏の阿弥陀仏しかおられないから、釈迦は仏教の結論として、「一向専念無量寿仏」と教えられている。
阿弥陀仏一仏に向かえ、阿弥陀仏だけを信じよ、必ず救われる、と釈迦は45年間、全人類に向かってこれ一つを教示された。この「一向専念無量寿仏」の真実の開顕が、聖人90年の全生涯であったのだ。
だが、『正信偈』に込められたこの御心を誰も知らない。知ろうともしない。ならば、親鸞聖人の御心を知らされた者から、未だ知らぬ者に伝えるしかないと、50年前に高森先生は親鸞会を結成され、今日までの熱火のご布教があるのである。
わずか3人から出発した浄土真宗親鸞会は、無上仏に押し出された仏縁深き同志が陸続と馳せ参じ、世界唯一の2000畳となり、拡大する聞法ドメインとなり、浄土真宗の流れを大きく変えて、我らは今、ともに無上道を進んでいる。
高森先生の謝恩の悲泣なくば、すべてはなかった。
このご恩、我ら親鸞学徒はいかに報ゆべきか。自らに問う50周年は、もうすぐである。