なぜ自殺は愚かなのか
昨年、日本の自殺者は3万2500人。12年連続で3万人を超えた。よほど苦悩の深いことであってのことだろうが、釈尊は自殺者を「愚か者」と説かれている。
釈尊、托鉢(たくはつ)中の時だった。大きな橋の上で、周囲をはばかりながら娘が、しきりと袂へ石を入れている。自殺の準備に違いない。釈尊は近寄り優しく事情を尋ねられると、娘はほかならぬお釈迦さまなので、正直に告白した。
「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、今は捨てられてしまいました。世間の目は冷たく、おなかの子の将来など考えますと、死んだほうがどんなにましかと苦しみます。どうか、このまま死なせてくださいませ」
泣き崩れる娘を不憫に思われた釈尊は、こう諭されている。
「何という愚かな人か。あなたには例えをもって話そう。ある所に、毎日、重荷を積んだ車を引かねばならぬ牛がいた。なぜオレはこんなに苦しまねばならないのか。考えた牛はこの車さえなければ苦しまずに済むと思いついた。牛は猛然と走るや、車を大きな石に打ち当て、木っ端微塵に壊してしまった。
飼い主は驚いて、こんな狂暴な牛には、よほど頑丈な車でなければならぬと、鋼鉄製の車を造ってきた。それは今までの車の何十倍の重さであった。その車に荷物を満載され、以前の数百倍、苦しまねばならなくなった。牛は深く後悔したが後の祭りであった。
ちょうど、車さえ壊せば苦しまなくてもよいと思ったように、そなたは肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。だが死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。この世のどんな苦しみよりも、それは恐ろしい苦しみなのだよ」
娘は後生の一大事に驚き、仏門に入ったという。まさに飛んで火にいる夏の虫、無知ほど恐ろしいものはない。仏法では、死後の行き先を知らぬ者を「愚者」といい、浄土往生がハッキリした人を「智者」といわれる。
「八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす、たとい一文不知(いちもんふち)の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり」 (蓮如上人)
百科事典を丸暗記する物知りでも、後世を知らねば愚者であり、世間では、博識なら知者と評するが、仏法は基準が全く違う。久遠劫(くおんごう)から迷い続ける魂の解決一つを説く仏法では、世事に幾ら明るくても「愚者」であり、万人がぶつかる後生が明るい人こそ「智者」なのだ。この後世を知る智者になることが、多生永劫(たしょうようごう)の目的と銘記しなければならない。