燦然たる「世界の光」
「生死の苦海ほとりなし
久しく沈める我らをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せて必ず渡しける」
(親鸞聖人)
(意訳)
「果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ」
人は皆、幸せ求めて生きている。だが、健康も、金も名誉も財産も、妻子も夫も、全ては今日あって明日なき無常の幸福でしかない。
汗水流してやっと手に入れた幸福に裏切られて悲しみ、別の幸せにすがりついては、見捨てられてまた泣く。邪教や迷信にだまされ辛酸を嘗める人も数知れない。幾度かそれらを繰り返したあげくに、皆、力尽きて死んでいくだけなら、一体何のための人生といえるであろうか。
生きる苦しみに、「嫌になっちゃった」と自殺する人は後を絶たない。美貌を誇るほど老いる苦しみは深刻で、頑強な肉体も病の器、四百四病の苦には勝てない。最後は、万人が忌み嫌う死の苦しみが待っているのは否定しがたい事実である。
アメリカの人気女優が、遺伝子検査で乳癌の確率87パーセントと言われ、死の恐怖のあまり乳房を切除したと報じられたが、たとえ癌にならなくても死の確率は100パーセント。古今東西、誰一人、逃れることはできないのだ。
まさに人生は生老病死の獄舎。釈迦はこれを「人生は苦なり」と喝破され、親鸞聖人は、「生死の苦海ほとりなし」と仰るのである。
これでは「人間に生まれてよかった」の生命の歓喜などどこにもない。人間は苦しむために生まれてきたことになるのではなかろうか。
しかたないよ、人生ってそんなもの。つかの間でも楽しめれば上等だ、と大いなるあきらめに沈んでいるのが現実だろう。
そんな全人類に親鸞聖人は、
「あきらめなくていいのだよ」
と、主著『教行信証』の冒頭に、
「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
“弥陀の誓願は、苦しみの絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である”
と弥陀の大船の厳存をズバリ教授され、冒頭の和讃にも、「幾億兆年もの過去から暗黒の苦海に沈み切っている我らを、絶対の幸福に救いあげてくださる弥陀の大船があるぞ。十方諸仏(大宇宙の仏方)の本師本仏(師の仏)である阿弥陀仏が、全人類を乗せても十分すぎる広大な船を造ってくだされたのだ。明るく楽しく人生を渡し、必ず極楽浄土まで届けてくださるのだよ」
と教えられているのである。
救いは「弥陀弘誓の船のみ」と親鸞聖人が断言されているのは、決して独断ではない。釈迦一代の仏教の結論が、
「一向専念無量寿仏」
であるからだ。無量寿仏とは、本師本仏の阿弥陀仏の別名である。
十方諸仏に見捨てられた我々を、弥陀だけが「我一人、助けん」と立ち上がって救助の大船を造ってくだされたのだから、弥陀一仏に向かい、信じよ、というのが、釈迦の一切経の結論であったのだ。
この釈迦の金言「一向専念無量寿仏」の徹底一つに、親鸞聖人は90年のご生涯を尽くされた。それは後世、聖人のみ教えが「一向宗」と世間からいわれるほど、厳しく激しいものであった。
では、どうすれば、この弥陀の大船に乗せていただけるのか。
全人類の疑問に親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」、蓮如上人も「聴聞に極まる」と、いずれも「聞く一つだ」と教導されている。
何を、どう聞かせていただくのか。
「『聞』というは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを『聞』というなり」
(教行信証信巻)
仏願の「生起」と「本」と「末」の三つを聞けよ、と教えられている。
「生起」とは、弥陀の大船は、どんな者のために造られたのか。それは、生死の苦海で苦しんでいる人を乗せて救うためである。
「本」とは、弥陀の大船。
「末」とは、弥陀はどのように乗せてくだされるのか。
この三つを聞いて、「疑心有ること無し」となった一念に、弥陀の大船に乗せられ、絶対の幸福に生かされるのだ。
その時の親鸞聖人の叫びが、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
である。
聴聞の一本道だ、モタモタするな、一直線に進め、必ず救われる、と押し出してくださっている。
苦悩の群生海は、救助の大船を刻々と、今も待っている。弥陀の一念の救いを伝えられた親鸞聖人の教えは、すべての人に燦然と輝く「世界の光」なのである。