一向専念無量寿仏とは、どんなことか
浄土真宗では「一向専念 無量寿仏」ということを厳しくいわれますが、どんなことでしょうか。
これは私たちが真に幸福になるために、最も大事なことですから、よく知ってください。
これは釈尊のお言葉です。無量寿仏とは阿弥陀仏のことですから、「一向専念 無量寿仏」とは、阿弥陀仏に一向専念せよ、必ず絶対の幸福に救われると教えられたお言葉です。
本師本仏(※1)の阿弥陀仏が本願に、「一心一向に我をたのまん衆生をば、どんな罪深き人なりとも、必ず救わん」と約束なされているからだと、釈尊はおっしゃっています。
釈尊は、この弥陀の本願一つを教えるためにこの世へ生まれられたことを、親鸞聖人は『正信偈』に明言されています。
『御伝鈔』には、
一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり (御伝鈔)
“往生一定(※2)の永遠の幸福になるには、弥陀に一向専念するか、否かで決まるのだから、「一向専念 無量寿仏」以上に大事な教えはないのである”
と覚如上人はおっしゃっています。
『教行信証』化身土巻末には、
出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、六親に務えず、鬼神を礼せず (菩薩戒経)
“真の仏法者は、たとえ相手が国王であれ、父母であれ、六親(※3)であれ、鬼神であれ、一切、これらのものに礼拝恭敬しないのである”
真の仏法者とは、「一向専念 無量寿仏」の人のことです。「一向専念 無量寿仏」の仏法者は、たとえ相手が国王であれ、父母であれ、六親であれ、鬼神であれ、これらのものに礼拝恭敬はしないのである。
ただ弥陀一仏を礼拝恭敬する者こそが、真の仏法者であるというのが、親鸞聖人のこの「経文」の解釈です。
事実、この『菩薩戒経』の教えを忠実に自ら聖人は実践されました。
『教行信証』後序には、
主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ (『教行信証』後序)
“天皇も家臣も、仏法に反逆して、正義を踏みにじり、怒りにまかせて大罪を犯した”
『口伝鈔』には、
上一人よりはじめて偏執のやから一天に満てり (口伝鈔)
“天皇をはじめとして、法謗の輩が天下に満ちている”
真実の仏法を弾圧した当時の天皇らを痛烈に非難されています。天皇神聖論がやかましかった戦時中、聖人のこのお言葉が、天皇不敬に当たると大問題となり削除されましたが、親鸞聖人の、「国王に向かいて礼拝せず」の明証でありましょう。
また『歎異抄』に、「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、一遍の念仏も称えたことがない」とおっしゃっていますのも、聖人の「父母に向かいて礼拝せず」の宣言でしょう。
また84歳の老聖人が、「一向専念 無量寿仏」を乱した長子・善鸞を義絶されたのは、「六親につかえず」の表明といえましょう。
親鸞聖人が、一切の鬼神(人畜の死霊を神とするもの)を排斥されたことは、余りにも顕著なことです。
『教行信証』には、
余の諸天神に帰依せざれ (涅槃経)
“天地の神々を信じ、礼拝してはならぬ”
天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ (般舟三昧経)
“天を拝んだり、鬼神を祀り仕えてはならない”
など諸経を引用して「和讃」には、
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす (悲歎述懐和讃)
“悲しいことよ。僧侶も在家の者も、日の善し悪しを論じ、天地の神を崇め、占いや祭りごとをやっている”
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す (悲歎述懐和讃)
“なんと悲しいことか、国中の僧侶も在家の者も、外面は仏法者を装っているが、内心は天地の鬼神を敬っている”
親鸞聖人ほど、鬼神信仰や卜占祭祀を打破なされた方はないでしょう。
この、「一向専念 無量寿仏」の強調が、やがて承元の法難を呼び、聖人は流刑にまで遭われました。いかに「一向専念 無量寿仏」の教えが大事かがお分かりになるでしょう。
蓮如上人も、「弥陀に一心一向とは、阿弥陀仏のほかに二仏を並べないことである。ちょうど、忠臣は二君につかえず、貞女は二夫を並べないのと同じだ」と教えられています。
私たちを捨てて逃げた、十方の諸仏や菩薩や諸神を信じて助かるはずがないのです。
溺れる者が藁にすがるようなもので、すがったまま沈むのです。
余りにも厳しい「一向専念 無量寿仏」の教えに、世間の人々は浄土真宗のことを、一向宗とまでいうようになったほどです。
いかに、「一向専念 無量寿仏」が、私たちが絶対の幸福に救われるに大切なことであるかが分かるでしょう。
※1)本師本仏……大宇宙の無数にまします仏の師匠。
※2)往生一定……浄土へ往けることがハッキリすること。
※3)六親……父母・兄弟・妻子のこと。