雑行雑修自力の心とは、どんなものか
浄土真宗で、絶対捨てねば助からぬといわれる「雑行・雑修・自力の心」とは、どんなものでしょうか。
浄土真宗では、「雑行・雑修・自力の心」をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられています。
その「雑行」「雑修」「自力の心」についての質問は極めて大切なお尋ねです。
まず、「雑行」といいますのは、私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行をいいます。
阿弥陀仏の救いに役立てようとする心を「自力の心」といいますから、「雑行」とは、自力の心でする諸善万行をいうのです。
例を挙げますと、「これだけ親に孝行しているから」「これだけ他人に親切しているから」「これだけ世の中のために尽くしているから、阿弥陀仏は助けてくださるだろう」などと思ってやっている、すべての善を「雑行」というのです。「親孝行」や「親切」や「慈善事業」などは、仏教で諸善万行といわれます。
ではなぜ、そのような諸善を雑行といって嫌い、捨てよといわれるのかといいますと、それらの諸善をしている私たちの心が、阿弥陀仏の御胸に五寸釘を打ちこんでいる恐ろしい自力の心だからです。
だから自力の心でやっている諸善万行を、「雑行」と嫌われ、捨てよと教えられるのです。
諸善に努めねば善い果報がきませんが、その諸善を往生浄土の足しにしようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよといわれるのです。
自力の心が廃って弥陀に救われてからの諸善は、すべて仏恩報謝の行となるのです。
このほか礼拝雑行とか、供養雑行などといわれる「雑行」は、阿弥陀仏以外の諸仏や菩薩、諸神に対して、礼拝すれば礼拝雑行となり、それらを讃嘆・供養すれば讃嘆供養雑行といわれます。
これらは、行為そのものが悪いのですから、決して行ってはならないことも付記しておきましょう。
次に、雑修についてお答えしましょう。
私たちが、朝夕の勤行で『正信偈』や『御文章』を拝読することを読誦正行といい、弥陀やその浄土を思念することを観察正行といいます。
また、弥陀一仏を礼拝するのを礼拝正行といい、称える念仏を称名正行といいます。そして弥陀一仏を褒め称え、供養するのを讃嘆供養正行といいます。
これらの読誦正行、観察正行、礼拝正行、称名正行、讃嘆供養正行は、弥陀の救いと最も関係の深い行ですから「五正行」といわれます。「雑修」とは、自力の心で行う、その「五正行」をいうのです。
たとえば「これだけ朝夕、欠かさずお勤めしているから」「これだけ弥陀一仏を礼拝し、念仏称えているから」「これだけ供養も欠かさないから」「これだけ、念仏称えているから助けてくださるだろう」などの、自力の心でやっている五正行を「雑修」というのです。
これも、行っているのは「五正行」ですから悪いことでは決してありませんが、悪い自力の心でやっているから「雑修」と嫌われ、捨てよといわれるのです。
五正行は努めなければならない大事な行ではありますが、自分の勤めぶりや成り心にとらわれて、これで助かるだろうと往生のあて力にする自力の心が悪いから、雑修と嫌われ捨てなければ絶対に大信海には入れないとおっしゃるのです。
悪い自力の心が廃り弥陀に救い摂られたならば、朝晩の五正行は仏恩報謝(※)の行になるのです。
親鸞聖人は、また、
仏号むねと修すれども
現世を祈る行者をば
これも雑修と名づけてぞ
千中無一ときらわるる(高僧和讃)
“一心に念仏を称えていても、現世の利益を求めてのことならば、これも雑修であり絶対に助からないのである”
と仰せになっています。
病気が治るだろう、出世ができるだろう、金が儲かるだろうなどと思って念仏称えている人も、雑修の人であり千人いても一人も助からぬとおっしゃっています。
以上、お分かりのように雑行も雑修も、その体は決して悪いものではないのですが、悪い自力の心でするから、雑行・雑修と嫌われ捨てよといわれるのです。
雑行・雑修を捨てよとは、あくまでも「自力の心」を捨てよということなのです。
では、悪い自力の心とは何かといいますと、弥陀の本願を疑惑している心をいいます。
阿弥陀仏が、十方衆生(すべての人)は、十方諸仏に捨てられた悪の塊だから、そのままを「我一人、救う」と、正覚という命をかけて誓っていられるのに「ひょっとしたら、助からないのではなかろうか」と、その本願を疑っている心ですから、これほど恐ろしい悪い心はないのです。これを「自力の心」というのです。
この曠劫流転の元凶である、雑行、雑修、自力の心が、阿弥陀仏と師主知識の種々の善巧方便によって、信楽開発の一念に廃るのです。雑行・雑修・自力の心が廃るまで真剣に聞法精進してください。
※仏恩報謝 阿弥陀仏のご恩に報いること。