三大諍論(じょうろん) 5
信心同異の諍論 3
まず、とてもお師匠さまの信心と同じになれぬと主張していた聖信房、勢観房、念仏房らに対しては、
「信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり」
と、おっしゃって、この法然の信心と異なるということは、おまえさんらの信心は自力の信心ということだ、と決めつけておられます。
そして、
「だいたい、自力の信心は各自の智恵や学問で築き上げた信心だから、どこまでいっても平等一味になれるはずがないのだ。十方衆生1人として平等の心を持ってはいないのだから、それぞれ智恵才覚に応じて異なった信心を造り上げる、これが自力の信心の宿命なのだ。それに対して、他力の信心は善人も悪人も、智者も愚者もともに阿弥陀仏より賜る信心であるから、異なる道理がないのだ。平等の大慈悲の明月は、大海でも小池でも、杯の水へも、ドブ溜の中にでも、水のある所には平等に影を宿すように、われわれの智愚や貧富や老幼、貴賤善悪、男女の差別によって、救いを左右される阿弥陀仏ではないのだ。この法然の信心も弥陀より頂いたもの、親鸞の信心も弥陀より賜った大信心であれば全く同じである。
この法然が賢くて造った信心ではないのだ。同一の信心でなければ平等の証果は得られない。もし、この法然の信心と異なった信心を持っている者は、この法然と同じ浄土へは行かれない。
この信心決定せずば極楽に往生せずして、無間地獄に堕在するのだから、よくよく思案しなさいよ」
と、キッパリと相手の顔色もうかがわずにおっしゃいました。
「ここに面々、舌を巻き、口を閉じてやみにけり」と、『御伝鈔』にありますように、またしても、親鸞聖人に勝利の凱歌があがりました。
自信か、驕慢かは聞く人によって決まるのです。
親鸞聖人が、お師匠さまの信心と私の信心は全く同じだと、大胆不敵に喝破されたのは、絶対無二の自信に立っておられたからです。
そして、自力の信心と他力の信心との水際を、鮮明にせんがための大諍論であったのです。