親鸞聖人と墓参りの意義
過日、お盆に里帰りし墓参りした時、ふと墓参りする意味は何だろうと考えこんでしまいました。
親鸞聖人の教えられた墓参りの意義を教えてください。
真実の仏法を求めていられる方なればこそ起きた、尊いご不審だと思います。
周知の通り世間では、お盆には死んだ肉親たちの霊が墓に集まってくるのだから、それらに供養するために参るのだと信じこまれています。
しかし、親鸞聖人や蓮如上人は、死者の霊が墓などに来られるものでは絶対ないと、世間の俗信を打ち破っていられます。
弥陀に救われている人は、死ねば浄土へ生まれて大活動するから、当然、墓石の下などにはいないし、救われていない者は、後生、永く苦患を受けなければならないから、これまた墓に集まることなどできることではありません。
いずれにしても、お盆だからといって、亡くなった人の霊が墓石に集まってこられるものではないことを、仏教では明らかに説かれています。
それを親鸞聖人は、御臨末に、
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す
“今生の終わりが来たら、私は弥陀の浄土へ帰る”
とおっしゃっています。
そして常のお言葉に、こう言われています。
某(親鸞)閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし(改邪鈔)
私が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ。
墓や葬式などを問題にしてはおられません。平生、弥陀に救われた人にとっては、墓や遺骨など問題にならないことなのです。
お盆だからといって、霊が墓石の下へ集まってこられるものでは、絶対にないというのが真実の仏法の教えです。
では、墓参りは無意味なのかといいますと、心構えさえ正せば弥陀の救いに値う勝縁にもなりましょう。
毎年、多くの交通事故死が出ています。私たちは死者何千人と発表されても、いささかも驚く心がありません。ですが、この人々のカゲには、親は愛児を、愛児は親を、妻は夫を、夫は妻を失い、悲惨のドン底におちいっているのです。
一瞬にして、他人をはね殺した運転者の多くは、あたら人生を棒に振っているのです。
それにもかかわらず、私たちはウツロな眼差しで数字を見ているだけで、そこには人間性のカケラもなく、死に対して完全マヒ状態の心があります。
無常観のないところに、決死の聞法心が起こるはずがありません。朝から晩まで、忙しい忙しいで五欲に追い回されて、静かに自己の脚下を見る時が余りにも少ないのです。
しかし、世の中が忙しくなればなるほど、人生をふりかえる間が必要なのです。講演でも落語でも、のべつまくなしにしゃべるのは感心できません。やはり適当に間がないと、話が薄っぺらになります。
水墨画の空間は、画面全体を生かす大きな役割を果たしています。茶の湯の間の和敬清寂は言うに及ばず、交通地獄も余裕がないから、一瞬にして修羅の巷になるのです。
忙しければ忙しいほど、世俗の一切を断ち切って、冷静に自己を反省する時間が欲しいものです。
その点、一年に一度、静かに墓前にぬかずくことは、人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「オレも、死なねばならぬのか」と、生死の一大事(※)に触れて、厳粛な思いがするでしょう。
ただ墓参りをするだけなら、先祖崇拝の迷妄に終わってしまいますが、無常を見つめて墓前で合掌するままが、自身の一大事に合掌することになれば、有意義な墓参りとなりましょう。
※生死の一大事…「死んだらどうなるか」の大問題。