二種深信とは、どんなことか
よく二種深信がなければ真実の信心ではないといわれますが、二種深信とはどんなことでしょうか。
お聞きの通り、二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた人とはいわれません。真実の信心とは二種深信のことです。二種深信といいますのは、二種の深信をいいます。二種とは、機(自己)と法(本願)の二つをいい、深信とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいいます。
一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)
“
いままでも、いまも、いまからも、助かる縁のない極悪人の自己が、ハッキリした”
二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
(法の深信)
“この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の誓い、まことだったとハッキリした”
機といいますのは、罪深い自己のことであり、法とは、阿弥陀仏の本願のことです。
金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もなくなったのを、法の深信といいます。これを機法二種深信といいます。
分かりやすくいえば、己の罪深きことと、弥陀の恩徳の高きことを、ハッキリと知らされたことをいいます。
「ひょっとしたら助からぬのではなかろうか」という不安は、絶対、助かる縁なき者と知らされる機の深信がないから起きる心です。
また、「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」という心は、「必ず助ける」と誓われている弥陀の本願を疑っている心ですから法の深信がないのです。
以下は親鸞聖人の、『歎異抄』での二種深信の表白です。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
(歎異抄)
修行も学問も修養も、自力のすべてが間に合わなかったと、地獄一定の身が知らされた(機の深信)。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
(歎異抄)
と、他力不思議に摂取された(法の深信)。
堕ちる機と助ける法の二つに、ツユチリほどの疑いもなくなったのを、二種深信というのです。
この二つの深信は、いつでもどこでも変わらず念々に相続しますから、機法二種一具の深信といわれます。
堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者、全く反する二つの深信が、同時に相続する不思議な信心ですから、「絶対矛盾的自己同一」と言った哲学者がありましたが、親鸞聖人は不可称・不可説・不可思議の信楽(信心)と讃仰されています。