親鸞聖人に弟子はなかったのか
親鸞聖人は『歎異抄』に「親鸞は弟子一人ももたず候」とおっしゃっていますが、本当にお弟子はなかったのでしょうか。そうだとすれば、どうして聖人の教えが今日に伝えられたのでしょうか。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし (恩徳讃)
“阿弥陀如来の高恩と、その本願を伝えたもうた方々(師主知識)の大恩は、身を粉に骨を砕きても済まない。微塵の報謝もできぬ身に泣かされるばかりである”
まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず(教行信証信巻)
「広大無辺な弥陀の洪恩をおもうと、どんな非難攻撃を受けても、ジッとしてはいられない」
と不断に報謝の念に燃え、布教に全生命を投入なされた親鸞聖人に、心底より信順しともに正法宣布に挺身したお弟子がなかったはずがありません。
事実、『親鸞聖人門侶交名牒』などには、聖人に親しく教えを受けた数多くの門弟の名が記載されています。
その数は、現在ある数本の『交名牒』と『二十四輩』(覚如上人が康永3年に関東に巡教された時、提出させられた連署)や、聖人が京都に帰られてから、門弟たちに出されたお手紙にみえる名前などを重ね合わせてみますと、60数名から70名近くの熱心なお弟子があったことが分かります。
真仏房、性信房、順信房、如信房、顕智房、唯円房、蓮位房、明法房などそうそうたる方々ですが、その分布もかなり広く、たとえば真仏房は下野国高田に、性信房は下総国飯沼に、順信房は常陸国鹿島に、如信房は奥州大網に在住して、布教活動していたことが知られています。
そのほか、会津、和賀、藤田、武蔵国太田などにも、門弟が散在していたことが分かります。
これらの弟子たちは、みな親鸞聖人が法然上人に対して抱かれていたと同じ敬慕の念を持っていたことは、蓮位房が夢の告げに、聖人は弥陀の化身なりと感得した、という伝記などでもよく窺えます。
では、お尋ねになっている『歎異抄』の、
親鸞は、弟子一人ももたず候 (歎異抄第6章)
“親鸞には、弟子など一人もいない”
と、なぜ仰っているのかということになりますが、これは歴史的事実を仰ったものではないのです。
親鸞聖人は、これらの人たちを自分の弟子だとは、決して思ってはいられなかったということです。
表面上、これらの人たちは、親鸞から教えを聞いて後生の一大事を知り、聞法しているように見えるが、本当はそうではないのだ。
これらの人たちが真剣に聞法求道しているのは、全く弥陀の独り働きなのである。
親鸞の力でも計らいでもない。全く阿弥陀仏のお計らいの結果なのだ。
親鸞の力や計らいで、弥陀の本願を信じ念仏するようになった人たちならば、親鸞の弟子とも言えよう。
けれどもまるまる阿弥陀仏のお力によって救われた人たちであるから、私の弟子などというものではないのである。
ともに弥陀の願力によって救われる、御同朋、御同行である。決して師弟の間柄ではないのであるという、聖人の絶対他力の信心を告白されたのが、「親鸞は弟子一人ももたず候」のお言葉と拝します。