信心獲得すると、どのようにハッキリするのか
信心獲得すると、どのように変わるのか、どうハッキリするのでしょうか。
親鸞聖人は、弥陀から賜った信心を、不可称・不可説・不可思議の信楽とおっしゃっています。その不可称不可説不可思議の信楽を獲ると、どうなるかについて『正信偈』には、こう教えていられます。
与韋提等獲三忍 (韋提と等しく三忍を獲る) (正信偈)
“韋提希夫人と同じように三忍を獲る”
三忍とは、喜忍、悟忍、信忍のことです。
忍とは、忍可決定ということで心のすわりをいいます。喜忍は喜びの心、悟忍は悟りの心、信忍は信の心ということです。
喜忍とは弥陀に救われた喜びのことです。地獄一定の一大事が、浄土往生一定(※1)と救われるのですから喜びがあるのは当然でしょう。
大海に溺れていた者が、大船に救助された喜びは格別でしょう。丸々生きたところで80年か100年、やがて亡びる肉体が救われても喜びがあるのです。
ましてや無量永劫の流転の絆を断ち切られて、不可称不可説不可思議の功徳の大宝海を丸もらいした喜びを『教行信証』に、広大難思の慶心と親鸞聖人はおっしゃっています。
それを蓮如上人は『御文章』に、次のように教えられています。
「うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな」。
「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり。「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上がるほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり (『御文章』一帖目一通)
“「嬉しさを昔は袖に包む」とは、自力と他力の違いも知らずに、「ただ念仏さえ称えておれば、浄土へ往ける」と思っていたことである。「今宵は身にも余る」とは、弥陀に救われて自力と他力の真仮を知らされて、仏恩報謝(※2)の念仏する身になった喜びは、躍り上がるほどだから身にも嬉しさが余りぬるということである”
次に、悟忍について親鸞聖人は、
ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり (『教行信証』信巻)
“弥陀の救いは、ただ心も言葉も絶えた、不可称・不可説・不可思議というよりほかにない”
と讃仰されています。
蓮如上人は悟忍を、『正信偈大意』に、
仏智をさとるこころなり (正信偈大意)
“不思議の仏智を不思議と知らされた心をいう”
仏智とは、阿弥陀仏の智慧のことです。弥陀の智慧は、不可称・不可説・不可思議ですから、世々生々の初ごと(※3)の驚天動地の驚きのことです。
次に信忍について親鸞聖人は、こう教えられています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり(『教行信証』信巻)
“「聞」(信)とは、阿弥陀仏の本願は、どんな人のために建てられたのか、どのようにして建てられたのか、その結果はどうなったのか、これら一切に〝疑心有ること無し〟となったのを聞(信)というのである”
と阿弥陀仏の本願にツユチリの疑心のなくなった心であるとおっしゃっています。
本願を疑っている心とは「助からないのではなかろうか」と後生不安な心をいいます。これを本願疑惑心とか、疑情とか、不定の心といわれます。
このような疑心がある間は信心獲得していないのであると、蓮如上人は「これ更に疑う心露ほどもあるべからず」(御文章)と明らかにされています。そして、
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候(『御文章』一帖)
“本願に疑い晴れていなければ、必ず、後悔するであろう”
と教誡されています。
この本願疑惑心が晴れて往生一定の大安心になったのを信忍というのです。
韋提希夫人と等しく、三忍の身になるまで聞法精進いたしましょう。
※1)往生一定……浄土へ往けることがハッキリすること。
※2)仏恩報謝……阿弥陀仏のご恩に報いること。
※3)世々生々の初ごと……果てしない過去から、初めてのこと。