親鸞聖人の見られた夢とはどんなものであったのか
親鸞聖人には、夢の記録が多いとお聞きしますが、どのような夢であったのでしょうか。
昔から、聖人に夢なしといわれますが、親鸞聖人は、最も多く夢を見られたお方のようです。
20年間も山に籠って、勉学修行をせられたので、生理的にも睡眠不足で夢を見られたとも考えられますが、不眠不休の求道に御仏も感動し、夢の中にまで現れ教導なされた霊夢としか思えないものばかりです。
その主なものを紹介して愚見も述べてみたいと思います。
建久2年9月12日といえば、親鸞聖人19歳の時ですが、比叡での求道に行きづまられた聖人が、かねて崇敬されていた聖徳太子の御廟へ参籠されて、生死一大事の助かる道を尋ねられたことがありました。
この時は、13日より15日までの3日間、おこもりなされたのですが、その間のことを聖人自ら、次のように書き遺しておられます。
〝夢に如意輪観音があらわれて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告した〟という、かつて母から聞かされていた話を私は思い出し、観音の垂迹である、聖徳太子のお導きによって太子ゆかりの磯長の御廟へ参詣した。
3日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じて、ついに失神してしまった。
第二夜の14日、四更(午前2時)ごろ、夢のように幻のように、自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中はあかあかと光明に輝いて驚いた。その時、聖人に告げられた聖徳太子のお言葉を、次のように記されています。
「我が三尊は塵沙の界を化す、日域は大乗相応の地なり、諦に聴け諦に聴け、我が教令を。汝が命根は応に十余歳なるべし、命終りて速やかに清浄土に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
時に、建久二年九月十五日、午時初刻、前の夜(十四日)の告令を記し終わった。
仏弟子 範宴」
範宴とは、当時の親鸞聖人のお名前です。
この時、聖人に告げられた聖徳太子の言葉の意味は、こうです。
「弥陀、観音、勢至の三尊は、チリのようなこの悪世の人々を救わんと尽力されている。
日本は真実の仏法の栄えるに、ふさわしい所である。よくきけよ、よくきけよ、耳をすまして私の言うことを。
そなたの命は、あと10年余りである。その命が終わる時、そなたは浄らかな世界に入るであろう。だから真の菩薩を、深く信じなさい、心から信じなさい」
ということでした。
聖徳太子の御廟は、大阪府石川郡東条磯長(現・太子町)にありますので、これを磯長の夢告といわれています。
この磯長の夢告は、親鸞聖人に何を予告し、どんなことが示唆されていたのでしょうか。
19歳の聖人が、磯長の夢告で最も深刻に受けとめられたのは、何といっても「そなたの命は、あと10年余り」の予告であったことは想像にかたくありません。
「その命が終わる時、浄らかな世界に入るであろう」の夢告も、聖人には甚だ不可解な予告であったに違いありません。
「だから真の菩薩を、心から信じなさい、深く信じなさい」と言われても、真の菩薩とは誰なのか、どこにましますのか、聖人の不審は深まる一方だったと思われます。
だがやがて、これら聖徳太子の夢告の謎が、一度に解ける時がやってきました。
親鸞聖人は、弥陀に救われた時に死ぬのだと仰っておられます。同時に、光明の世界に生まれるのだとも仰っておられます。
『愚禿鈔』に、こう教述されています。
(原文)
【本願を信受するは前念命終なり、即得往生は後念即生なり】(愚禿鈔)
(意訳)
「弥陀の本願まことだったと信受した一念に、迷いの命が死ぬのである。同時に、往生一定の光明の世界に生まれるのだ」
これが、聖人29歳の時でありましたから、磯長の夢告から10年目のことでありました。
「10年余りで死ぬ」と言われたのは、自力の迷心のことであったのです。
そして「速やかに浄らかな世界に入るであろう」と言われたのは、一念の弥陀の救いであり、絶対の幸福を獲ることを予告せられたものでした。
深く信じなさい心から信じなさいと勧める、真の菩薩とは、法然上人であったことも、聖人は明らかに知らされたことでありましょう。
磯長の夢告より9年たった正治2年12月上旬、28歳になられた聖人は、目前に迫る後生の一大事に懊悩されて、比叡山の南、無動寺の中にある大乗院に、こもり切られるようになりました。
そして、参籠の満願にあたる12月30日の四更(午前2時)、如意輪観音が現れて、聖人は再び夢告にあずかったことを記されています。
「善いかな、善いかな。汝が願、まさに満足せんとす。善いかな、善いかな。我が願、満足す」
この意味は、
「そなたの一大事の後生、解決する時は近づいた。望みを捨てずに求めなさい、私の役割も終わろうとしている」
というものです。
これを、大乗院の夢告といわれています。
明けて、29歳になられる親鸞聖人には、まさに弥陀の絶対の救いが眼前に近づいていたのです。
この絶対無二の弥陀の救いに値わせることが、一切の諸仏、菩薩の唯一の責務でありますから、如意輪観音も、その使命を果たした喜びを夢告したものと思われます。
親鸞聖人にとって忘れることのできない、第3の夢は、大乗院の夢告の直後、さしせまる後生の一大事に苦悩せられた聖人が、比叡の山を下りて京都のドまん中の六角堂で、100日おこもりになられたことがあります。
六角堂は、聖徳太子の建立なされたものですが、その本尊の救世観音に、我が身の救われる道があるかと、必死に尋ねられた時のことです。
95日目の夜明けに、救世観音が顔かたちをととのえ立派な僧の姿をして、まっ白な袈裟を身に着け大白蓮華の台に座って、親鸞にこう告げられたと、聖人自ら記されています。
「行者が、これまでの因縁によって、たとい女犯があっても、私(観音)が玉女の身となって肉体の交わりを受けよう。
一生の間、能く荘厳して、その死に際しては導いて極楽に生ぜさせよう。
救世菩薩は、この文を唱えて言うには、
『この文は、私の誓願である。一切の人々に説き聞かせなさい』と告げられた。
仰せに従って、数千万の人々に、これを聞かせたと思われたところで夢がさめ終わった」
この夢告の偈文は、『御伝鈔』上巻第3段に載せられています。
また、親鸞聖人より5年も早く亡くなった、高弟の真仏が書写した文書にもありますから、聖人の真作として今日疑う人はありません。
行者とは、真実の救いを求め仏道修行していられた聖人のことです。仏教ではそれまで、僧侶は一切女性に近づいてはならないという、厳しい戒律がありました。
しかし、色と欲から生まれた人間が、色と欲から離れ切れない矛盾に突き当たって、悶え苦しんでいられた親鸞聖人に対して、
「もしあなたが、女性と交わりを結ぶ時は、私(観音)が玉女という女になってあげましょう」と告げられたのは、ありのままの人間として、男女が結婚して人生を荘厳できる、阿弥陀如来の絶対の救済のあることを、救世観音が夢で教導なされたものでしょう。
しかも、「この文は、私の誓願である」と断言しているのは、この弥陀の絶対の救済を教えることこそが、諸仏・菩薩の出世の本懐であることを表白せられたものです。
「一切の人々に説き聞かせなさい」と言ったのは、「この阿弥陀如来の救いを、一切の人々に説き聞かせることこそが、あなたの唯一無二の使命である」と、救世観音が聖人にさとされたものでしょう。
「この救世観音の教えに従って、数千万の人々に、これを聞かせた」とあるのは、聖人の開顕なされた阿弥陀仏の本願によって、どれだけの大衆が人間あるがままの姿で、絶対の救いに値うことができたであろうと思えば、深くうなずかずにはおれません。
世にこれを「女犯の夢告」とか、「救世観音の夢告」といわれているものであります。
この他、『御伝鈔』などに、種々の夢記がありますが一応擱筆いたします。