ご往生 1
親鸞聖人は弘長2年11月28日、京都で90年の波瀾万丈の生涯を閉じられました。
御臨終には聖人の末娘・覚信尼やわずかな弟子たちが立ち合いました。
親鸞聖人の御遺言が『御臨末の御書』として今日に伝えられています。
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の、片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。1人居て喜ばは2人と思うべし、2人居て喜ばは3人と思うべし、その1人は親鸞なり。
我なくも
法は尽きまじ
和歌の浦
あおくさ人の
あらんかぎりは」
大意は以下の通りです。
◆我が歳きわまりて
「私の寿命もいよいよ尽きることとなった」
◆安養浄土に還帰すというとも
「阿弥陀仏に救い摂られている私は、臨終と同時に弥陀の浄土に往生させていただくが」
浄土真宗は平生業成の教えであるから、平生に弥陀の本願に救い摂られたとき、いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる大安心、大満足の身に定まってしまいます。そのハッキリした自覚を聖人はいくたびも述べておられます。
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)
「この身は今は大変な高齢になってしまいましたから、おそらく先に浄土に往生することでしょうが、浄土にて必ず、必ず、待っています」
「名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、力なくして終るときに、彼の土(浄土)へは参るべきなり」(歎異鈔9章)
「名残惜しく思うが、娑婆世界に縁が尽きて、生きる力を失い、命、終わるときには、かの阿弥陀仏の浄土に参らせていただくのだ」
生きてよし、死んでよし、死んだらどうなるのか、という後生の不安は微塵もありません。まさに無碍の一道、絶対の幸福です。これを往生一定ともいいます。