信心獲得したら煩悩はどうなるのか
信ずる一念に過去、現在、未来の三世の業障が一時に罪消えるといわれますが、信心獲得したら煩悩や悪業は、どうなるのでしょうか。
蓮如上人が『御文章』に、
三世の業障一時に罪消えて (御文章)
“過去、現在、未来の三世にわたって、私を苦しめてきた業障が一時に消滅する”
とおっしゃっています。
この一時に消える業障とは、欲や怒りや愚痴の煩悩や悪業のことではないのです。
一般の仏教では、煩悩や悪業を恐ろしい罪悪とされますが、浄土真宗では弥陀の本願を疑う心(疑情)ほど、恐ろしい罪はないと教えられます。
私たちが、果てしない過去から迷い苦しんできたのも、現在、苦しんでいるのも、未来永劫、苦しまねばならぬのも、その原因(罪)は、弥陀の本願を疑う心(疑情)一つであると親鸞聖人は教えられています。
『正信偈』では、
生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す
(正信偈)
“過去、現在、未来の三世にわたって、我々が迷い苦しみから離れられないのは、弥陀の本願を疑う心、疑情一つのためである”
また「和讃」には、
真の知識にあうことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき (高僧和讃)
“迷い苦しみの元凶は、弥陀の本願を疑う疑情一つであると教える、真の知識に遇うことは、難きが中に難きことである”
仏智疑う罪深し (正像末和讃)
“弥陀の本願を疑うほど、恐ろしい罪はないのである”
と明言されています。
弥陀の本願を疑う心(疑情)を、自力の心ともいいます。
私たちが迷い苦しみ流転するのは、欲や怒りや愚痴の煩悩のためではないのです。また煩悩で造った悪業のためでもないのです。
弥陀の本願を疑う自力の心一つで、三世を流転するのだと親鸞聖人は教えられています。
だから聞法する目的は、この三世を迷わす業障である本願疑惑心、自力の心を破って頂くためなのです。ほかに聞法の目的はありません。
生命をかけて聞法すると、不可思議の弥陀の願力によって自力の心が廃るのです。この時を聞即信とか、帰命の一念といわれます。
聞即信の一念に自力の心が廃り、明信仏智(※1)、破闇満願(※2)しますから、蓮如上人はそれを「三世の業障一時に罪消えて」とおっしゃっているのです。
この自力の心さえ消えれば、煩悩や悪業は減りも無くなりもしませんが、随犯随懺と照らされ、煩悩即菩提と喜びの源泉に変わるのです。
これを聖人は、こう「和讃」されています。
罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し (高僧和讃)
“弥陀に救われても煩悩や悪業は変わらないが、氷と水のごとく、氷が大きいほど解けた水が多いように、罪障(煩悩)が多いほど、幸せよろこぶ功徳(菩提)が多くなるのである”
とおっしゃっています。
信心獲得しても、欲や怒りの煩悩具足(※3)の身は変わりませんが、それらは往生のさわりにならずご恩喜ぶ種になるのです。
※1)明信仏智 阿弥陀仏の本願(仏智)がハッキリ知らされること。
※2)破闇満願 苦悩の根元である無明の闇(疑情)が破れ、「絶対の幸福に救いたい」という弥陀の願いが我々の身に満たされること。
※3)煩悩具足 煩悩の塊。人間のこと。