親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか(3)
~体失不体失往生の諍論~
親鸞聖人が法然上人のお弟子であった時に、法友たちと3度も諍いをされたということをお聞きしますが、どんなことでなされたのでしょうか。(その3)
親鸞聖人の第三の諍論は「信行両座(しんぎょうりょうざ)の諍論」といわれているものです。
これは、多生(※1)にも値(あ)い難い阿弥陀仏の本願を聞き念仏を称えていても、念仏に、他力の念仏と自力の念仏のあることを知らないで、ただ称えてさえおれば助かると思っていた法友たちに、聖人が警鐘乱打されたのが、この信行両座の諍論となったのです。
ある時、法然上人に聖人が、
「親鸞は幸いにも、お師匠さまに遇い弥陀の本願に値わせて頂きました。この身の幸福は何ものにも比べようがございません。その上、多くの法友にも恵まれ、尊いご教導を頂いております。それにつけても、法友たちの中に現当二益の幸福を得ていられる方が、どれくらいあるだろうかと案じられてなりません。お許し頂ければ、皆さんの信心をお尋ねしとうございます」
と、お聞きになりました。
「そなたも案じていたのか。信心は心の問題だから難しいが、よかろう」
許しを得られた聖人は、早速、「行不退の座」と「信不退の座」を設けられ、380余人の法友たちにおっしゃいました。
「本日は、お師匠さまのお許しを頂き、皆さんにお尋ねしたきことがございます。ごらんの通り、ここに、『行不退の座』と『信不退の座』を設置いたしました。いずれなりとも各自の信念にもとづかれて、お入りください」
不退とは、弥陀の救いのことですから、弥陀の救いは、「行」(念仏)でか、「信」(信心)でかという問いが、「行不退」か、「信不退」かということです。
十方衆生の救われる唯一の弥陀の本願は、念仏で助けるという誓いなのか、信心で救うという誓いなのか。
親鸞聖人の出された問題は、法然門下、380余人を驚かせ、戸惑わせる大問題であったのです。
弥陀の本願には、「至心、信楽、欲生の信心」と、「乃至十念の念仏」とが誓われていますし、法然上人は『選択集』に、
「弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもって往生の本願となしたまわず。ただ称名念仏一行をもってその本願となしたまえり」
また、
「名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり」
と教えられているからです。
これらの御文が、彼らの脳裏をかけめぐったことは想像に難くありません。
そして何をいまさら、信行両座に分ける必要があろうか、念仏(行の座)に決まっているじゃないかと、心中叫んだことでありましょう。
その実、決然として信不退の座についた者は、信空上人と聖覚法印、熊谷蓮生房の3人だけでした。
そのほか、380余人は、去就に迷い判断に苦しみ、一言も述べる者がなかったと、『御伝鈔』に記されています。
それについて、覚如上人は、
これ恐らくは、自力の迷心に拘りて、金剛の真信に昏きが致すところか(御伝鈔)
“これは多分、自力の信心で、他力の信心を獲ていなかったからであろう”
と道破されています。
やがて、親鸞聖人も信不退の座に進まれ、4人となりました。
最後に、380余人注視の中、「法然も信不退の座につきましょう」と、法然上人も信不退の座に入られました。
そのとき、門葉、あるいは屈敬の気をあらわし、あるいは鬱悔の色をふくめり(御伝鈔)
“その時、380余人の門弟は、みな驚き、後悔した”
と書かれています。
この時、380余人の門弟は、一応は驚いてへりくだりはしましたが、「お師匠さまの前で恥をかかされた」という恨みの後悔であったのです。
法友たちは、それから聖人をことごとく白眼視し、背師自立(※2)の恩知らずとまで罵倒するようになったのです。
背師自立の謗りも孤立無援も覚悟の上で、なぜ聖人は、法然門下の中に信行両座を別けられなければならなかったのか。
弥陀の本願は、信心正因(※2)といくら明示されても、行に迷い信に惑う私たちは、ついつい念仏に腰を下ろそうとするのです。
信行両座の諍論は、決して800年前の法然門下にだけあった争いではなく、これからも、絶えず繰り返され、龍華の御代(※)まで続くことを熟知していなければなりません。
※1)多生…生まれ変わり死に変わりしてきた多くの世界。
※2)背師自立…師匠の教えと異なる自説を立てること。
※3)信心正因…信心一つで救われるということ。
※4)龍華の御代…遠い未来。