聞即信とは、どういうことか
浄土真宗の法話によく聞即信という言葉が使用されますが、どんなことでしょうか。
聞即信という言葉は、阿弥陀仏が私たちを絶対の幸福に救済してくだされた時のことを表す極めて大切な言葉です。
阿弥陀仏のお約束は、「聞其名号、信心歓喜」とありますように、聞いて信ずる者を助けるというお約束ですから、聞くということが阿弥陀仏の救いに最も大切なことなのです。
ゆえに蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる(御一代記聞書)
“仏法は聞く一つで救われる”
と教えられています。
聴聞といいますのは、「聴」もきくということ、「聞」もきくということですが、仏法では、聴というきき方と、聞というきき方を厳然と区別されていることを、よく知らなければなりません。
まず、聴というきき方は、ただ耳で聞いて合点しているきき方をいいます。2+2は4、4+4は8というように、きいて納得しているきき方をいいます。
弥陀の救いに値うには、まず、阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、よく納得することが大事です。阿弥陀仏の本願の生起本末とは、弥陀は、どんな者のために本願を建てられたのか。どのようにして本願を建てられたのか。その結果は、どうなったのか、ということです。
納得できなかったら納得できるまで、重ねて聞かねばなりません。仏教は因果の道理を根幹として説かれていますから、どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。教えを重ねて重ねて聞いて正しく理解し納得することが、第一に大切なことです。これが聴聞の聴です。
しかし、どんなに理解や合点しても、それだけでは知った覚えたのであって弥陀の救いではありません。それを蓮如上人は、こう言われています。
聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、信得候わぬはきかぬにてあるべく候。信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり(一宗意得之事)
“聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、それは聴聞とはいえないのである。たとえ千座万座きいても、信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである”
いくら耳で千回万回の説法をきいても、それは合点や理解だけの聴のきき方です。
では聴聞の聞とは、どんなきき方か、親鸞聖人は、次のように教えられています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり(『教行信証』信巻)
“聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、ツユチリほどの疑心もなくなったのを、聞というのである”
絶対動かぬ逆謗の屍そのままが、不可称不可説不可思議の願力に動かされた一刹那、娑婆往来八千遍、種々の善巧方便は、私ひとりのためでありましたと、弥陀の本願の生起・本末に疑心が晴れ(信)、大安心大満足になったのを、聞即信といわれるのです。
聞即信まで聞き抜きましょう。