善鸞義絶
84歳の老聖人が、親子断絶せねばならなかった善鸞には、よほど許せぬ言動があったことは想像に難くありません。
いったい、何があったのか、親鸞聖人に関心あるだれしもが知りたいことです。
住みなれた関東から、懐しい京都に帰られた聖人に、関東の弟子、性信房たちから、悲しい知らせが続いて届いた。
長子、慈信房善鸞の、仏法を破壊する、恐ろしい言動の数々でありました。
現存の史料を根拠に、善鸞の言動をうかがってみると、まず、嘉元3年7月27日、高田の顕智房が、書写したという「義絶状」には、次のように記されています。
「又、慈信房の、ほうもんのよう、みょうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞が、おしえたるなりと、人に慈信房もうされてそうろうとて、これも、常陸下野の人々はみな、しんらんが、そらごとをもうしたるよしを、もうしあわれてそうらえば、今は父子のぎは、あるべからずそうろう」
これから推測されることは、
私だけが真実の教えを知っている、みんながこれまで父から聞いていたものとは違う。
私の知っているのが、本当の父の教えだ。
父が夜、ひそかに私1人に教えてくれた秘法だから。
善鸞が得意になって、言い触らしていたことは、こういうことであった、と思われます。
ここに
「夜ひそかに親鸞が私1人に教えた」
と言っていることから
「夜中の法門」とか
「秘事法門」
といわれ、善鸞が秘事法門の元祖のようになったのです。
では善鸞は、何を、夜中に授かった秘法と教えたか。
『義絶の書状』には、こう書かれています。
「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたり」
『最須敬重絵詞』巻5、には
「初は、聖人の御使として、坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなわりたまいけるが、後には、法文の義理をあらため、あまさえ巫女の輩にまじわりて、仏法修行の儀にはずれ、外道尼乾子の様にておわしければ、聖人も御余塵の一列におぼしめさず。所化につらなりし人々もすてて、みな直に聖人へぞ、まいりける」
と、記録されています。
なんということか。善鸞の夜中に授かった秘法とは、
「弥陀の本願の中心は十八願だ、と信じてきたが、父の真意ではなかった。かつて栄えても、今は、しぼんだ花のようなものだからもう捨てようじゃないか」という、
「一向専念、無量寿仏」
の否定であった、と分かります。
そして神につかえて祈祷し人の吉凶を予言する、聖人の最も嫌われた現世祈祷師に善鸞はなっていた、と理解されます。
なお、親鸞聖人の曽孫、覚如上人が、正応3年3月(21歳)常州小柿の山中で病気になられたとき、病床を訪ねた善鸞が、
「われ符をもって、よろずの災難を治す」(最須敬重絵詞)
と、符を持参しているのを傍証にあげることができます。
さらに、真浄房あての手紙には、
「これまでのように、社会的に無力の者同士で信仰していては、教えが弘まらない。信者以外でもよい。社会的有力者と縁を結んで、彼らの力を利用して布教するように改めよ。これも父の新しい教えだ」
と、聖人の権威のもとに語られていたのです。
「余(権力者)のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう。(中略)
これよりは、余の人を強縁として、念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず」(御消息第7通)
親鸞聖人の厳誡された権力者との癒着まで、聖人の名において、すすめられていては、もはや、許すことはできなかった。
護法に悲愴な、聖人のみ心に涙せずにおれません。