弥陀の救いとはよく合点することか
仏教を聞いて、よく納得できたのが信心だと思っていますが、間違っているでしょうか。
結論からいいますと、納得や合点と信心獲得(弥陀の救い)とは全く違います。
理論と現実、演習と実戦の違いのようなものです。
世間のことでも、理屈と実際はいかに違うか例をあげてみましょう。
「大工4人で3カ月かかって建てる家を、大工6人で建てたならば、何カ月で建つか」と尋ねられれば、誰でも2カ月で建つと答えましょう。
しかし、この理屈でゆきますと12人の大工ならば1カ月で建つことになるし、360人ならば1日。3110万4000人の大工ならば、1秒で建つことになります。そんな理屈通りにはなりません。
着物を着れば温かいと分かっても、温かくなりませんし、電灯が灯れば明るくなると、いくら合点していても明るくはなりません。
ご飯を食べれば、満腹すると信じていても腹はふくれません。
温かくなるには、実際に着物を着なければなりませんし、実地に灯を点じなければ明るくなりません。ご飯でできている部屋に入っていても、口から喉を通さなければ餓死します。火事の時、消防ポンプの講義をいくら聞いていても火は消えません。
世の中のことでさえ納得や合点だけでは、どうにもならないことがいろいろありましょう。
ましてや、無量永劫の魂の大問題です。
色もなければ形もない、無量無辺の阿弥陀仏の大慈悲心を、色も形もない私たちの心に頂いたのを信心というのです。
「堕ちる者をお助けの、阿弥陀さま」と合点して喜んでいても、堕ちたこともなければ助かったこともありませんから本当の喜びはないのです。
信心獲得するには、まず、正しい教えを納得できるまで聞くことが大切です。親鸞聖人の教えは、聞けばどんな人でも納得できる教えだからです。
しかし、合点や納得したのが信心とは違うのです。それは教えを知って覚えただけです。
正しい教えを納得しなければなりませんが、合点や納得が往生に間にあわなかったと粉砕されて、不可称、不可説、不可思議の弥陀の救いに値わなければ、真実の信心ではないのです。
不思議不思議のほかはない、心も言葉も絶えた他力になるまで他力を聞きましょう。