弥陀の救いは、ハッキリするのか
信心獲得するとハッキリすると言う人と、凡夫にそんなことはないものだと言う人とがありますが、どちらが本当なのでしょうか。
ハッキリするのは当然なことですが、意外に多い質問です。
信心獲得するとは、阿弥陀仏の救いに値ったことをいうのです。弥陀の願力によって往生一定(※1)、現生不退、絶対の幸福に救われたことをいいます。
この世も苦しみの連続であり、未来も必堕無間の一大事を抱え、十方の諸仏にも見放され苦より苦に流転してゆく私たちを憐れに思われて「我をたのめ、必ず絶対の幸福に救う」と誓っていられるのが阿弥陀仏です。
もちろん、死後のことではありません。だから弥陀の本願を平生業成というのです。平生に苦悩渦巻く人生を、光明輝く人生に救うというお約束です。
こんな素晴らしい本願は世にありませんから親鸞聖人は『正信偈』に、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり (正信偈)
“阿弥陀仏は、無上最高、希有の誓いを建てられている”
とおっしゃっているのです。
その弥陀のお約束通りに、往生一定、現生不退、絶対の幸福に助かったことを信心獲得とか、信心決定というのです。
これは全く弥陀のお力(他力)によってであることがハッキリ知らされますから、明信仏智(※2)といい他力の信心というのです。
しかも、この弥陀の救いは一念で完成するのです。それは、弥陀が命一刹那に迫っている人をも救うために、「ひとおもい」(一念)で救うという約束をなされているからです。
親鸞聖人はこれを、「一念往生」とか「一念の信心」とおっしゃっています。一念という時尅の極促で私たちの苦悩を抜き、無上の幸福を与えてくだされるのです。これを抜苦与楽とも破闇満願(※3)とも説かれています。
阿弥陀仏の救いは、このようにハッキリしていますから、「これで、助かったのだろうか」とか「信心獲得できたのだろうか」などと思案したり、他人に尋ねることではないのです。
親鸞聖人の『教行信証』その他に書かれていることは、この弥陀の不思議な救いの驚嘆と、広大な慶心ばかりです。
覚如上人も「救われたことを喜んでいる」と『執持鈔』におっしゃっています。
蓮如上人も「他力の信心を今獲たり、弥陀より賜った大信心ということ、今こそ明らかに知られたり」と『御文章』に記されています。
ハッキリしなければ、往生の一大事、安心できません。
救われた喜びがなければ「真宗宗歌」も歌われません。「真宗宗歌」には、「永久の闇より救われし、身の幸なにに比ぶべき」とか、「深きみ法にあいまつる、身の幸なににたとうべき」と歌われているからです。
ただのただもいらん、ただだったとハッキリするまで聞き抜きましょう。
※1)往生一定……浄土へ往けることがハッキリすること。
※2)明信仏智……阿弥陀仏の本願(仏智)がハッキリ知らされること。
※3)破闇満願……苦悩の根元である無明の闇(疑情)が破れ、「絶対の幸福に救いたい」という弥陀の願いが我々の身に満たされること。