親鸞聖人とただ念仏の救い
『歎異抄』2章に、親鸞聖人は「ただ念仏して弥陀に助けられた」とおっしゃっています。「ただ念仏さえ称えていれば助かる」のが、親鸞聖人の教えではないでしょうか。 .
『歎異抄』2章の「ただ念仏して」の意味を、ほとんどの人は、「ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口で称えてさえおればよいのだ」と思っていますが、とんでもない間違いなのです。
「ただ念仏して」と親鸞聖人がおっしゃったのは、
「ただ口で念仏を称えてさえおればよい」
と言われたのでないことは、親鸞聖人の教えを無我に相承(※1)なされた蓮如上人が、『御文章』の至る所に、「いくら念仏称えていても助からぬ」と教えられていることでも明白です。
その根拠を、2、3、挙げておきましょう。
名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり(『御文章』1帖)
“南無阿弥陀仏の名号を、ただ、称えていても助からないのである。”
ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かるように皆人の思えり。それは覚束なきことなり(『御文章』3帖)
“ただ口で、南無阿弥陀仏と称えていれば助かるように、みな思っているが、それでは助からないのである”
ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず(『御文章』3帖)
“ただ声に出して、念仏ばかり称えている人は多いが、それでは極楽へは往けないのである”
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大きに覚束なきことなり(『御文章』3帖)
“ただ南無阿弥陀仏と、口で称えてさえおれば、極楽へ往けると思っているが、それは、とんでもない間違いである”
このような文証はたくさんありますが、これらの御文で「ただ、念仏さえ称えていれば助かる」などとは、絶対に親鸞聖人は教えられていないことがお分かりになると思います。
では、『歎異抄』の「ただ念仏して」の「ただ」とは、どんなことなのか。この「ただ」の意味をハッキリさせておかなければ、あなたの不審は晴れないと思います。
浄土真宗の人たちは、阿弥陀さまはお慈悲な仏さまだから、このまま、ただで助けてくだされるのだと気楽に聞かされていますが、本当は、「ただ」ほど難しいものはないのです。
ただはただですが、「ただじゃった」と聞かなければ、ただではありません。
「ただじゃそうな」と合点するのは、易しいけれども、聞いても聞いても、ただが分からず、そのままの本願を、そのままと聞けよと教えられても、上の心は聞いても下の心は、「どのままだ」と反発して、素直に聞いてくれないのです。
打っても叩いても、金輪際、素直に聞かぬまんまの、ただじゃったと本願が聞こえた、ただなのです。
その感動を親鸞聖人は、こう言われています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり(『歎異抄』後序)
“弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねられたご本願は、こんな親鸞一人のためだった”
と懺悔と歓喜の念仏を「ただ念仏して」と聖人はおっしゃっているのです。
この聖人の「ただ」の一言には、弥陀の五兆の願行(※2)を丸もらいし、釈尊の一切経を読破なされた感激が表されているのですから、ただ、念仏を称えておればよいのとは、天地雲泥の違いがあるのです。
『歎異抄』には、このような誤解され易いところがたくさんありますから、カミソリ聖教(※3)ともいわれ、蓮如上人は仏縁(※4)の浅い人には封印されている聖教であることを、よくよく心得ていなければなりません。
※1)無我に相承 私見を交えず、そのまま伝えること。
※2)五兆の願行 阿弥陀仏が、気の遠くなるような長期間、我々を救うためになされた思惟と修行のこと。
※3)カミソリ聖教 読む人によっては、子供にカミソリを持たせたように大ケガする仏教書。『歎異抄』の異名となっている。
※4)仏縁 阿弥陀仏との因縁。