ご往生 2
◆和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ
「和歌山の片男波海岸の波が、寄せては返し、寄せては返すように、親鸞も一度は浄土に往生するが、すぐこの娑婆世界に戻ってきて、苦しむ人々に弥陀の本願、お伝えするぞ」
阿弥陀仏に後生の一大事を救われ、安養の浄土に往生の定まった身となられた聖人は、阿弥陀仏の広大無辺なご恩を知らされ、以後、亡くなられるまで身を粉にし、骨を砕いての御恩報謝の活動に生きられました。
最大の仏恩報謝は、阿弥陀仏の大慈悲を1人でも多くに伝え、人々を信心決定に導くことであります。
「誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず」(教行信証信巻)
「阿弥陀仏から受けたご恩が深重であり、広大だから、どれほどご恩返しを励んでも、これで済んだ、ということはない。いかに人々に非難攻撃されようとも、御恩報謝に真実の仏法を伝えずにおれないのだ」
御恩報謝は死後も続きます。それを聖人は『御臨末の御書』で言われています。
「親鸞は浄土に往生してもすぐ衆生済度に娑婆世界に戻ってくるぞ。十方衆生が救われ切るまで、その活動に終わりはないのだ」
◆一人居て喜ばは二人と思うべし二人居て喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり
「だから1人で仏法を喜んでいる人は、2人だと思ってもらいたい。2人で仏縁を喜ぶ人あれば、3人だと思ってもらいたい。そのもう1人とは親鸞のことだ。また『1人居て苦しまば2人と思うべし。2人居て悩まば3人と思うべし。その1人も親鸞なり』。喜びも悲しみも親鸞はともにあるのだ」
◆我なくも
法は尽きまじ
和歌の浦
あおくさ人の
あらんかぎりは
「私が死んでも仏法は永久に尽きることがない。苦しみ、悩む衆生がいる限り仏法は永遠に尽きない」
阿弥陀仏は、「今現に在して説法したまう」(阿弥陀経)と釈尊が説かれる通り、生きて在すから、仏法は不滅なのです。
このような『御臨末の御書』を残して浄土に還帰された親鸞聖人は、今、まさにこの世界にあって我々のそばにおられます。
「お前は1人ではない。親鸞がそばにいるのだ」
とおっしゃってくださいます。
ともに喜び、ともに悲しんでくださる親鸞聖人の励ましを得て、1日も早く平生業成の身になることが大切です。
それには阿弥陀仏の本願をひたすら聞かせていただく、真剣な聞法しかありません。
和歌の浦に沈む夕日(和歌山県)