親鸞聖人の教えと故人の供養
死人に対する一番のご馳走は、読経だと皆さんが言われますが、お寺さんにお経を読んでもらうことは、死んだ人のためになるのでしょうか。
親鸞聖人の教えを聞かせてください。
葬式や法事の読経が、亡くなった人のためになるという信心は、世間の常識のようになっています。
しかし、そのような迷信を徹底的に打破なされたのが、実に、仏教を説かれた釈尊であったのです。また、親鸞聖人は、その釈尊の教えを、最も、厳しく教誡された方でありました。
ある時、釈尊に一人の弟子が、「死人のまわりで、有り難い経文を唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」と尋ねたことがありました。
その時、釈尊は黙って小石を一個拾われて、近くの池に投げられました。
水面に輪を描いて沈んでいった石を釈尊は指さされて、こう反問されています。
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば、石は浮いてくるであろうか」
石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた、自業自得によって死後の果報が決まるのだ。経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか、というのが釈尊の教えです。
読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはなかったのです。
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、絶対の幸福に導くのが仏教の目的なのです。あの孝心の厚い親鸞聖人が、
「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、一遍の念仏も称えたことがない」
とおっしゃっているのも、これら根深い迷信を、いかに打破されているかが分かるでしょう。
しかし、このような真実の仏法を説くと、読経や葬式が死人のためになると宣伝して、生活の糧にしている人たちから猛反発されるのを恐れて、誰も明らかにしませんから、人情も後押しして、世間の根強い迷信となってしまったのです。
まず、このような人たちは、お経が、どうしてできたのかということを全く知らないのです。お経は、苦しみ悩んでいる人間を幸福にするために、釈尊が説かれた教えを弟子たちが、後世の私たちのために書き遺したものです。だから、当然ながら死人に説かれたものはありません。お経はすべて、生きている人を相手に説かれたものです。
親鸞聖人の書かれた『正信偈』も、蓮如上人の『御文章』も、みな生きている人のために書かれたものであって、死人のために書かれたものなど、一つもないのと同じです。
あくまでも、現在、苦しみ悩める人々を真実の幸福に導くために、書き遺されたものであることを知らなければなりません。
では、葬式や法事や読経は、全く無意味なことかといいますと、それは勤める人の精神の如何にかかっています。
厳粛な葬儀を通して、我が身を反省し罪悪観を深め無常を観じて、聞法心を強める縁とすれば有り難い勝縁となりましょう。
また、法事も、チンプンカンプンの読経のみで終わっては意味がありません。読まれたお経に説かれている教えを聞かせて頂いて、ますます、弥陀の救いを求めなければならないことを知らされてこそ意味があるのです。
死んでしまえば、生きている者が、どんなに騒いでも、どうすることもできないのです。
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候(『御文章』一帖)
“命のあるうちに、阿弥陀仏の救いに値わなければ必ず後悔するであろう。よくよく心得ねばならぬ”
蓮如上人の訓戒を、噛みしめなければなりません。